誰かこの想いを分かってくれるだろうか
この感情を誰かわかってくれるだろうか。感動と言ってしまうにはちょっとフクザツな想い。会津の殿様が、新選組を語ったのだ。もちろん、それぞれご本人ではないし、遠慮や社交辞令もあるだろう。でも「大変お世話になりました」とおっしゃった。(笑)初めて聞く「殿」の講演は聴き障りの良い声と、「誠」と「愚直」が会津と新選組を繋いだ。とおっしゃったその言葉が表現するには難しい感情を連れてきた。ときにはユーモラスに冗談を交えながら、史実を淡々と述べ、「会津藩」と「新選組」を語ったのだ。近藤さん、土方さん、井上さん、沖田さん、齋藤さん、永倉さん、隊士の方々のご子孫と、容保公のご子孫。不肖、会津藩士の末裔のワタクシ。分不相応ではあるけれど、歴史を遡ってそれぞれのご先祖が見ていたらどう思ったろう。笑っただろうか、分不相応だと怒るだろうか、嬉しいと思ってくれるだろうか。「殿」の語る歴史は正之公から始まり、家訓15か条、さらに幕末のあの動乱の京都守護職拝命を語り、白河の戦いを語り、五稜郭落城までを語ったのだ。近藤さんに至ってはその辞世まで丁寧に紹介してくださった。忠義と誠の心をもって戦ったのに時の利なくして敗れてしまった。主君の恩に報いられなかった。「義に倒れるとも不義に生きず」この「主君」と言うのは慶喜のことではなく容保公のことではないか。と。うむ、うむ。そう思う。「幕府」に忠義を感じていたとしてもそれは「慶喜」ではないよな。近藤さんも容保公には格別の想いがあったと思いたい。容保公が終生大切に身につけていた「御宸翰」と「御製」それは鳥羽伏見後江戸に戻った新選組が屯所にしていた場所に大切に保管されている。容保公は壬生浪士隊の稽古を見たことがある。記録に残っているのは斉藤さんと永倉さんの稽古を見た。というもの。その強さを喜んだ容保公は酒と肴を振舞ったというもの。八・一八の政変の警備を記した配置図が発見された。そこには「壬生浪士隊」の文字がある。お預かりの「壬生浪士隊」が正規軍として認識されていたという、証であると「殿」は言う。この八・一八の政変で容保公は孝明天皇から「御宸翰」と「御製」を賜ったんだよねそして会津藩で以前使われていた「新選組」の名前をくれたんだ。それは容保公の壬生浪士隊に対する信頼だとおっしゃった。そして「斎藤一」さん会津とどんな関係だったのか謎も多いけれど。会津藩が降伏したとき会津藩士として扱われ、その後会津で生きたのは周知の事実。正規の会津藩士ではないのだから脱走することも出来たろうに、会津藩士としてその後の人生を生きたのだ。「志を捨て去るは正義にはあらず」はじめさんらしいよね。「微衷を尽くす」ってヤツよね。そしてこのはじめさんと容保公の不思議な縁ははじめさんの結婚式を見ればよくわかる。上仲人が容保公、下仲人は山川浩さんと佐川官兵衛さん。そして嫁は祐筆の時尾さん。豪華よね。まるではじめさんの結婚を会津が藩を上げて祝っているような。それぞれのエピソードは有名なものだし、びっくりするようなものではないのだけれど。それが「殿」から語られると…。う~ん…。感慨深い。会津藩の犠牲者2973名。と「殿」がすらすらと語られたとき、なんかね、その中に我がご先祖様も居るのかとすごーく思ったのですよ。本で読んだり調べたいわゆる有名な方々だけじゃない、実際にご子孫の方々とあったりした、そのそれぞれのご先祖様がさ、どんな思いで、どんな状況でと思うとね。殿がちゃんと戦った戦士を覚えていてくれるのだ。とかね。会津のために命を賭して戦ってくれた新選組。感謝と深い尊敬の念を捧げたい。と。40分くらいの講演であったけど、満場の拍手の中、講演を終えられた「殿」になんだか手を合わせたくなるような想いがしましたよ。今回「新選組の隊士」の慰霊祭ではなく、「新選組隊士及関係者尊霊」の百五十回忌総供養祭。それがなんともね。うれしいとかよかったとかそんなんじゃなくてさ。なんというか、あの戊辰戦争で戦って命を落とした全ての人に。もちろん、会津を攻めたヒトたちには恨みというか絶対忘れないゼ。みたいな想いがあってそれはもうDNAに刻み込まれてるから仕方ないよぅと思うし、ぬくぬくと現代を生きるわたしが気軽に「ごめん、いや、お互い様!」みたいなことはご先祖様の生き様を思えばなかなか出来ないけれどさ。ヒトは忘れることが出来る。ヒトは許しあうことが出来る。と、信じたい。忘れてはいけないこと、忘れたくないことを踏まえて、それでも様々な思いを胸に、歩み合うには150年と言うのは短いのか長いのかわからないけど、でも。互いの傷にそっと手を当てるような想いは持つことが出来るんじゃないかな。150年前。 「実に此の事有り、山上に石を立て以って厥の志を表す」