伊庭クン’家族
伊庭クン家はなかなか複雑~♪~兄弟~長男 八郎秀頴(ひでさと) 弘化元年(1844)生まれ←長男なので跡取りです次男 武司幼名三郎、金田家の養子となる三男 安継(惟安?惟次?幼名孫四郎のち武司。加藤家の養子となる)四男 亥朔(いさく)のちの想太郎(明治34年「東京市政の腐敗の元凶」と星亨を刺殺。)←なかなか激しい人だったようです長女 名前・年齢、不明~親子関係~実父 伊庭常同子軍兵衛秀業(じょうどうしぐんべえひでなり)安政5年(1858)8月13日コレラにより急死。47歳。三橋銅三郎。七代目軍兵衛・秀淵の娘(ユウ)を娶り八代目を継ぐ幕府勘定吟味役三橋藤左衛門成方の次男。老中・水野忠邦によって留守居与力に抜擢される。留守居与力は与力の中では最も格が高く屋敷も2~300坪くらいを拝領するもともと七十俵五人扶持くらいの伊庭本家はこれにより二百俵クラスに大出世。心形刀流もさかんになる←門人帳が綴じれなくて特別なヤツを使ってたとか。弘化2年天保の改革の失敗で水野忠邦が失脚するととばっちりをおそれて秀業は隠居を決める。このとき八郎はわずか2歳。秀業とユウの間には娘刀(トウ)がいたが天保7年5歳で早世。ユウも天保8年22歳で死亡した為親戚である古矢秀実の養女を後妻に迎える。この人が八郎の実母、マキ。)娘は旗本榎下平八郎に嫁ぎ、息子は4人。隠居を決めた時、門人の中から旗本蒔田(まいだ)左衛門の家来で堀和惣太郎(文政5年頃生まれ)を養子とし、伊庭家を相続させるおやぁ?蒔田左衛門って…。見廻組の蒔田相模守広孝の…?↑この方は…備中国浅尾藩主。のち幕臣。武蔵国生まれ。安政4年5月本家の蒔田広運の婿養子となる。元治元年4月、見廻組頭。5月上洛。慶応3年6月、病気で免職江戸へ戻る。本家と分家とかそういう感じかしら?京都では対立してたといわれている新選組と見廻組だけどどうやら、この蒔田氏、土方さんと仲良かったらしいです。蒔田氏の御子孫がご健在でそういうお話をしていたとか。ちなみに佐々木只三郎さんは与頭。立場的には蒔田さんの下ですが、見廻組にはもうひとり蒔田氏と同格役の方(松平因幡守康正)がいてどちらについていたのかは不明。本当にこの時代の人たちは何処でどうつながってるかわからないっ!←オモシロイけど。九代目を継いだ惣太郎は秀俊と名乗る。弘化2年(1845)7月12日家督相続。しつこいけど八郎はこのとき2歳嘉永5年(1852)富士見宝蔵番につく安政3年(1856)3月講武所が創設されると秀業は教授方に推されるがこれを断り、変わりに秀俊と甥の三橋虎蔵を剣術教授方へ出仕させる信八郎も剣術世話心得として出仕。のち安政5年10月剣術教授方となる安政5年(1858)秀業の死後秀俊が伊庭軍兵衛を襲名すると秀業の実子5人を自分の養子にした養子に来た当時の伊庭家は養父母の秀業夫妻、秀業の実子5人、秀業の甥三橋兄弟、自分の妻と義蔵(弘化4年1847生)、礼子の実子、秀業の姉・清月院のすくなくとも14人家族!これに塾生が加わっていたと言うのだからなんとも賑やか。その後、養父・軍兵衛秀俊は元治元年(1864)将軍の直接護衛隊である小姓組を廃止し、新たに新設した「奥詰侍衛組頭」に抜擢されるこのとき将軍のお供をして上洛with八郎。(「御上洛御供之節旅中并在京在坂中覚事覚留帳」略して「征西日記」を書いたのもこのとき♪)八郎は物心着いたころはすでに秀俊が家督をついでいたので、長男としての気苦労もなくのんびりほよよんと育っていくのだ。ちなみに…伊庭家は維新後、静岡藩主となった旧徳川将軍家に従い遠州横須賀へ移住。想太郎が十代目を継ぐ秀俊は明治7年ごろ東京に出て山階宮(のちの東伏見宮)に仕えのち海軍省の剣術師範をしていたが、明治19年(1886)胃がんで死去。想太郎は明治34年(1901)星亨を刺殺。在獄中の明治40年10月病死伊庭家は八郎が徹底抗戦したのに家族はお咎め無だったんだね。幕臣だから?*三橋兄弟…秀業の実兄・三橋斧右衛門の子で兄は虎蔵盛任(文政7年(1824)頃生まれ)、弟はのちに湊五右衛門の養子となった湊信八郎信任。(文政12年頃の生まれ)八郎らとは仲が良かったものの年も近い秀俊とは禄に口も利かなかったという大家族は大家族なりに苦労があるんだね。最も家族が14人もいて、大きなお屋敷なんだし口利かなくても気付かなかったんじゃ…。(参考:伊庭八郎のすべて)