新選組史跡散策
新選組史跡散策いやぁ、こういうちゃんとした(ちゃんとしなくても)史跡巡りは久しぶりだぁ!好天にも恵まれ、朝もはよから出かけました。集合は新宿駅。今回の散策は結構生活圏内なので、なんとなく親しみを感じちゃう。大江戸線、牛込柳町まずは近藤さんの試衛館界隈から。文久三年一月、仲間と共に浪士隊に参加した近藤さんの身上書によると「四代浪人 当時市谷加賀屋敷 山川礒太郎地借り仕り候」とあるとのこと。この「山川礒太郎」邸、1851年版の切絵図で探すと「山川清左衛門」という名前がある。ここは試衛館も近いんだよね。ここには永倉さん、総司、平助も一緒にいたらしい。左之助は不明(笑)山南さんはもう少し離れた場所に住んでたようですな。試衛館は本当は現在試衛館跡地の碑が立っている場所を正面に見ると右斜め後ろ。現在マンションが建っているあたりのようですな。その碑が立っている場所のすぐ隣は稲荷社があり、ここは祭礼が行われていたという、まさに地元密着の神社。その祭礼の日が11月18日だと言う。11月18日!平助が殺されたその日もここでは賑やかにいつもの様に祭礼が行われていたんだろうか。平助も行ったであろう、その祭礼を思い浮かべただろうか。近藤さん、「甲良町屋敷」から「試衛館」に通っていたのね。なんとなく試衛館に住んでいたイメージだったよ。牛込柳町から飯田橋へ。ここは永倉さんがいた坪内主馬の道場があった。坪内主馬は「心形刀流」。「心形刀流」と言えば伊庭八郎。永倉さんは伊庭くんとも知り合いだったよねぇ。近藤さんの本妻、ツネさん。この方は松井八十五郎さんの娘。その松井さんン家が早稲田通りを一本入った現在は床屋さんのあたり。ところがこの二軒お隣には鈴木さんちがある。この「鈴木さん」家は斎藤一の生まれたお家。お友達…とまではいかなくてもお知り合いだったよねえ。縁とは、誠に意なもの不思議なものですなぁ。さらに飯田橋。新徴組の広大な屯所があったのだ。なんと山田弓具店の並び。うわぁ。都内は史跡の宝庫とは知っていたけど、こんなに身近だとびっくりするなぁ。さらに山南さんの大久保弥九郎道場、講武所跡を通って伝通院へ。文久三年二月四日。近藤さん、土方さん以下「将軍警護」を目的とする「浪士組」に参加するべく訪れた面々は伝通院で会合を持ちました。と、あるその「伝通院」実際に会合があったのはその伝通院の子院、「処静院」だそうです。その「処静院」は現存していませんが、その山門に建っていた石柱が現在伝通院の門前にある、あれ、だそうです。「不許葷酒入門内」とあるあの石碑です。これ、その眼に写ったよなぁ。ところでこの「不許葷酒入門内」禅寺では、匂いの強い野菜は心を乱し精が付くため、酒は頭の働きが鈍り集中力が弱るため修行の妨げになるとのことで持ち込みが禁止されていたようです。神社は「お神酒」とあるように神様にお供えをすることで霊力を宿った神聖なお酒を頂くことで、その神様の霊力を体内に取り込む。と言う意味があるらしいのに。「神社」ではOK。「禅寺」ではNG。興味深いですな。永倉新八。のちの名を杉村義衛。この方、長く生きました。そしてハジメさんと交流がありました。住まいをところどころ変えました。最初ははじめさん家の近く。だんだんと遠くになったようです(笑)その、何度か変えた住まいのひとつには食事処となっている所もあり、今回はそこで昼食となりました。だから何?って、感じですが(笑)ま。そゆことです。さて。その、さいとうはじめさん。新選組隊士ながら、会津で戦い、そのまま会津藩士として捕らえられ会津藩士として生涯を終えたフシギなお方。会津藩士の娘、時尾を嫁とし会津藩士と生涯親交を持った人物。この方は本当に不思議でならない。その方の住居が特定されたのだ。今まで斎藤一いや、藤田五郎邸とされていた春日通りの左側ではなく、右側だ、と。残された資料に「春日町のところに錦秋女学校っていう学校がありました。そのそばに石の段々がありまして、それを下りると少し窪い感じの所に藤田五郎様と時尾様のお住まいがありました。」と土田敬子さんが言ったとある。なるほど、その言葉通りに坂があり、そうなのかな。と思う。ま、どっちでも良いね。最近思うのは史跡はざっくりで良いとの思い。ここ!と特定するよりもこのあたり。と、ざっくりした方が大きく見える。と言う事。当時の住まいの感覚は今とは違う。道路も、街も、感覚も変わっている。「ここだ!」と、思うとその場所しか想えない。「このあたり」と思った方が、当時に想いを飛ばせる。そんな気がするのデス。だから、写真も撮りませんでした。ここ。と、思ってしまうより、このあたりと想った方が、今はリアリティを感じられる気がして。次ははじめさん、いや、五郎さんの勤務地。御茶ノ水。湯島聖堂。へ?ここ?湯島聖堂?はじめさんの勤務地「高等師範学校」と言うのは、湯島聖堂でした。迂闊にも全然気付かなかった。大好きな湯島聖堂にはじめさんが20年も勤務していたなんて。しかも、大成殿に向かう石畳は当時と全く変わっていないなんて。今回、一番感動した場所でしたな。だって、大好きな湯島聖堂、はじめさんが20年も通った場所だったなんてねぇ。庶務掛兼会計掛 勲七等 藤田五郎 福島士さらに赤坂へ移動し、勝海舟邸、篤姫が明治になって暮らした場所を確認したあと、千駄ヶ谷へ。大江戸線、国立競技場駅。総司の終焉の地。と、言われるところには碑が建っている。が。ここではないという。古地図を調べた方が、正しい場所を特定した。と、言う。道路を渡った、ビルとビルの間。ここが、こここそが植木屋平五郎の家、総司がその生涯を終えた場所だと。以前流れていた河の名残がある。架かっていた橋の名残がある。これで特定できたのだと。史跡巡りは楽しい。そして日々、いろんな資料が発見され検証される。どれが真実なのか。を、求めて。だけど。たくさんの資料を検証し、想いを馳せ当時を偲ぶことが大切なんじゃないか。たくさんの人とと想いを共有し「忘れない」ことが大事なんじゃないか。このあたりにこういうヒトがいた。こういう建物があった。こんな時代だった。それをつないでいくのが良いんだ。きっと。それが楽しい。それでも良いのではないかな。ひとりひとりのキモチの中に、何かが残るということ。それで良いのではないかな。幕末。混乱と動乱の中。日本を作り変えようをしたヒトがいた。守ろうとしたヒトがいた。壊そうとしたヒトがいた。どれが正しくてどれが間違っているのか。それは。判断なんてつかないよねぇ。みんな真剣なんだもの。その上に作られた「歴史」の中に我は生きているんだもん。