孝明天皇の謎
孝明天皇 天保2年~慶応4年(1831~1866)仁孝(じんこう)天皇の第4皇子で16歳で踐祚(天皇の位を受け継ぐこと)。熱烈な攘夷主義だがこれは側近が外国人のことを大袈裟に伝え、それを信じ込んでいたといわれている。それまでのおとなしい天皇とは違い自分の意見がはっきりしていた人。そのため朝廷は力を盛り返したとさえ言われる強気の人でもあった。攘夷主義者ではあったが国難なればこそ公武一体となってこれに当たるべきとの考えも強かった。和宮降嫁の時は、政略と肉親への愛情との中で悩む優しい人でもあったのだ。天皇が発病したのは慶応2年(1866)12月。典医15名(!)によって「疱瘡」(天然痘のことだね。ルイ15世もこれじゃなかったっけ?)と診断される。しかし、熱も下がりお粥も食べられるほど快方に向かっていた容態が急変、翌日には重態に陥り崩御。「中山忠能*(ただやす)日記」では「25日は九穴より出血、はなはだもって恐れ入り候」と臨終の様子を伝えているが、「孝明天皇紀」にはこの日の典医の報告がない。またある老女からの手紙として「今度の疱瘡は、本当のものではなく、悪瘡が発生する毒を献じた結果である」という噂が広まったり、天皇は筆先をなめる癖があるので硯に毒液を入れておいたとか、疱瘡が快方に向かったので典薬頭が一服盛ったとか様々な説が流布した。イギリスの外交官アーネスト・サトウもミカドは天然痘にかかって死んだというが、数年後消息通の日本人から毒殺と確言された。と言っている。他にも閑院宮家*の侍医の日記では「刺殺説」まである。それには宮家から迎えの籠が用意され参上しようとするといつもの方角と違う。やがて壮大な玄関で降ろされ廊下を案内されると御所であった。広い座敷の奥の小部屋に総髪の貴人が横たわり、傍には医師等が顔面蒼白で座っていた。診察すると白羽二重の寝衣や敷布団、掛布団にまで血がべっとりとついている。その人は脇腹を鋭い尖った刃物で突き刺されており既に虫の息であった。その日のことは絶対他言を禁ぜられたがその人は「お上」であった。というものである。ここまでさまざまな説が流れたと言うのは、よっぽど天皇の死が自然死とは思えなかったからなのかなぁ同じ年の7月に逝去された将軍、家茂の時はこんなにならなかったみたいだし。時期も悪かった。ようやく慶喜が将軍となったのが5日。発病は12日。倒幕派から見ればここで天皇が倒れてしまえば、慶喜とともに幕府を葬るいい機会。一方、江戸の幕府側から見たら家茂が将軍としていた時ですら「一会桑」の時代とさえ言われた権力を将軍の立場で慶喜が持ち、それを孝明天皇が擁護したら…。それならば、いっそ。とか…。この報を聞いた会津藩主松平容保候はショックのあまり倒れたと言われている。孝明天皇崩御により、最大の後ろ盾を失ってしまった容保候はこの後残酷な運命に翻弄されていくのである(T_T)さて、真相は明らかになる日が来るのだろうか…!*中山忠能…公卿。大納言。明治天皇の外祖父。天誅組蜂起の主将忠光は第7子*閑院宮家…四親王家のひとつ。(よくわかる幕末維新ものしり事典)などより