[大阪市東淀川区] 長柄橋北詰
大阪市東淀川区のテーマは「長柄橋北詰」。都島区の与謝蕪村の時に出た「長柄(ながら)」という地名は古くからあるもので、大阪市ホームページの橋紹介の長柄橋の項に、信頼度の高い書物にこの橋が登場するのは『日本後記』の嵯峨天皇条で、弘仁3年(812)、律令の制度にのっとって、中央政府から造橋使が派遣されて工事が行われたとされる。しかし、40年後の仁寿3年(853)には橋は既に廃絶しており、渡船が設けられていた。とある。その古代の長柄橋は、淀川自体の流れも変化しているので、今とは少し場所はずれているようだ。古代の長柄橋は40年でなくなってしまった短命な橋で、その後は朽ちた橋桁だけが水面に見える姿になったが、その情景が、「往年の栄華・滅びの美」として貴族たちの琴線に触れたようで、多くの和歌に詠まれ歌枕になっている。長柄橋にはもうひとつ物語がある。古代建設時の「長柄の人柱」の伝説で、そこに出てくる、ものいわじ 父は長柄の 橋柱 鳴かずば雉も 射られざらましこの歌は有名だ。「鳴かずば雉も」の部分を、大阪のおばちゃんたちへの教訓である「口は禍のもと」という意味で、祖母は日常会話に取り入れていた。「長柄の人柱」は、橋建設で誰を人柱にたてるか揉めている時に、ある男が「袴につぎがある奴を選んだらいい」と提案したら、自分の袴につぎがあって、その男が人柱で沈められてしまった、という話。その後日談で、男の娘のエピソードがあり、娘が詠むのがこの和歌だ。長柄橋が再び架けられたのは1873年(明治6年)。現在の橋は1983年(昭和58年)竣工で、ニールセンローゼ桁アーチ橋。ケーブルを斜めに張ってるのがニールセンローゼ橋の特徴だ。(JR東海道本線の淀川上の鉄橋から)長柄橋は東淀川区(北詰)と北区(南詰)を結ぶ、全長656.4mの橋。北詰からにこだわったのは、そこが東淀川区だったからだ。〈長柄橋北詰〉バス停から大阪シティバス37系統に乗って大阪駅に戻る時、橋の南詰に仏様がいらっしゃるのが見えた。1945年(昭和20年)6月7日にあった第3回大阪大空襲で、米軍機による機銃掃射で橋の下に逃げた多くの市民が犠牲になった。南詰の仏様(観音様)は、その犠牲者と水難による犠牲者を供養するためのものだそうだ。長柄橋は背負っている物語が重い橋だ。難波なる 長柄の橋も 尽くるなり 今は我が身を 何にたとへむ 伊勢(古今和歌集)[大阪市東淀川区]人口 176,600人 (2021年7月1日現在)面積 13.27平方キロメートル