紀州街道(日本橋駅〜高麗橋)
(今年9月編)日本橋1丁目交差点から堺筋(紀州街道)を北へ向かう。なんかごちゃごちゃした落ち着かない通りだ。怪しげなマッサージ店に、「大人のおもちゃあります」と張り紙されているショップ、みんな同じ髪型に見えるホストのおにいちゃんの大きな看板などがある。狭い歩道をスピード出して走るチャリンコがたくさんいて、ぼーっと歩くわけにはいかない。ここのところ市内のチャリンコが異常に増えたように思う。ちゃんと走っている人もいるが、暴走しているのも多くって、、、この日も、子供を後ろに乗せて思いっきり信号無視しながら斜め横断している強者ママを見た。堺筋を斜め横断するって、どういう心境? 恐ろしくて見てられないわごちゃごちゃしていた街並みは、周防町交差点を過ぎると少しすっきりする。こんな味のある建物もあった。元は銀行で、現在はレストラン。「一般の方への小売りはお断り」の立て札がある問屋さんが増え、高速高架下には船場センタービル。1度だけ行ったことがある。堺筋本町を過ぎると金融機関が増える。平野町交差点角には、登録有形文化財に指定されている『生駒ビルヂング』。現在も生駒時計店が営業している。昭和5年竣工。大阪大空襲では隣家まで燃えたが、コンクリート壁に守られて戦災を免れた。平野町の次の交差点は道修町。『春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで、、、』の書き出しではじまる谷崎潤一郎の『春琴抄』の舞台の道修町(どしょうまち)。春琴は薬種商のお嬢さん。今も道修町は薬関係の会社だらけだ。交差点角から『薬』の文字がおどっている。『中国伝来強精薬』ねぇ、、、ここを左に入ると、武田薬品、塩野義製薬、日本新薬など製薬会社のオフィスだらけ。江戸時代に薬種商がまとまってあった名残だそうだ。『中国伝来強精薬』の筋向かいには、タイムスリップしたような薬種商さん。重要文化財『小西家住宅』。1870年創業の、薬の製造販売『小西屋』の屋敷兼社屋。今も現役の会社で、ボンドのコニシ。コニシの大阪本社はこの『小西家住宅』の向かいのビルにある。高麗橋1の交差点を右折して200mほど東へ行くと、ゴールの高麗橋。小栗街道のMyゴールに比べたら、ゴールらしい景色だわ。橋のたもとには、『里程元標跡』の碑があった。里程元標とは、明治期に設置された道路の路線の起点や終点や経過地を表示するための標識。江戸時代、大坂における里程計算の起点は、ここ高麗橋東詰で、京街道、中国街道、紀州街道の起点であった。明治期にも引き継がれたが、現在は梅新交差点に移された。せっかく由緒ある高麗橋なのに、橋の上には高速が通っていて、景観台無し。もったいないな〜この日歩いた距離は3km。これにて紀州街道歩きは終了。紀州街道といっても、泉佐野から高麗橋までの大阪府内のみ。おまけにチン電でインチキした箇所もあるので、「達成しました!』とは言えないが、満足した。堺、岸和田、貝塚と個性的な町の中心を歩いたのが楽しかった。紀州街道を終えたので、次は中山道に挑戦することにした。高崎から日本橋を目指そうと計画しているが、100km以上あるので、1回に5kmぐらいしか歩かない私では20回以上かかりそう。それにJR高崎線の駅間は長く、途中でや〜めたっ!とやりにくいのが気になるところ。娘が東にいる間に終えたいが、どうだろう??帰って来る気がなさそうだから大丈夫かな。