ホ・ジュン 16世紀医師を目指した男が面白い!
ホ・ジュン 16世紀医師を目指した男が面白い!≪参考≫ Wikipedia 許浚より許浚は、李氏朝鮮時代の医者。『東医宝鑑』の著者。(ホ・ジュン、허준、1539年 - 1615年)父許碖(ホ・ユン、허윤)と母一直孫氏の間に庶子として生まれた。出生地は諸説あって定かではない。父と祖父の許琨(ホ・ゴン、허곤)はともに武官であった。宣祖の時、医科を受験して内医院に入り(雑科を受験せず推薦で内医院に入ったとする説もある)、王室の病気治療で功を立てた。1592年、壬辰倭乱(文禄の役)が勃発すると、御医(王の主治医)として義州にいたる逃避行に追従し、1604年、忠勤貞亮扈聖功臣3等の論功を受け、1606年には、陽平君(ヤンピョングン)に封じられた。1608年、宣祖の死の責任を取り、流刑に処されたが、翌年には光海君によって呼び戻された。1610年には、朝鮮第一の医書として名高い『東医宝鑑』を完成させている。許浚の墓地は、京畿道坡州市津東面下浦里の臨津江を越えた非武装中立地帯にある。≪韓ドラ ホジュン≫出身地…義州の龍川(ロンチョン)北朝鮮と中国の国境近辺。アムノック川の下流。隠れ住んだ場所…慶尚道の山陰(サヌム) 智異山(チリサン)の東。現在の山清。≪智異山 チリサン≫韓国最大の面積を持つ山岳国立公園。「智慧を持つ異人の山」という意味。金剛山、漢拏山とともに、三神山の一つ。民族信仰の霊地。白頭山ー太白山脈ー小白山脈―智異山へと続く峰を 「頭流山」ともいう。日本の白山信仰と似てるなぁ。ずっと峰続きなんだ。つまり日本でいう中央構造線みたいなもんかな?モンゴル方面から鉄を求めてやってきた民族の半島最後の地だわね。そいういえば、キムスロ(首露王)の母親は、伽耶山の女神正見母主。伽耶山は、峰続きの智異山のお隣の山。正見母主は、中国の家系だとかどっかで読んだような。つまり、近辺の高い山には、外国から流れて来た人が多く隠れ住んでいたんじゃないのかな?鉱山の知識と薬学の知識を持った異国の人たち。薬学は、中国から伝わった。智異山近辺は、暖かいところと寒いところ、高い山と平地、様々な植物がよく茂る場所だった。一部の人が、日本に来ても薬草を採取して暮らした。住友の元祖。越中富山の薬売りの元祖。白山って、富山にすごく近い!白山って、中東のサウダー山(白い山)から来てると思うんだけど。白い山の方から来た人たちの子孫。これが、首露王の父 天神夷毗訶だったんじゃないかな?つまり製鉄の技術を持つ騎馬民族。首露王の息子は10人いて、伽耶の金氏を継いだのは第2子で、もう1人は、母親の許家を継いだ。残りの男の子は、日本を分けてもらったんじゃないかと思ってるんだけど。騎馬民族ってよくこうやって子供に土地を与えるんだよね。だから同時期に日本海側や九州・紀州・熊野・伊勢とか もらったところを攻めたんじゃないのかなぁ?それが倭という共同体みたいな国だったんじゃないのかなぁ?だから、高句麗が攻めてくるまでは、半島側も九州側も仲間だったのじゃないのかな?攻めてきた高句麗と首露王も 同じとは言わないけど血筋は近かったんじゃないのかなぁ?・・・妄想だけどね。智異山 知恵を持った異人の山 これすっごく気になったわ。異国の人が多くて、身分証のないホジュンが隠れやすい場所だって知ってたから、両班の父もホジュンをここまで逃がしたんじゃなかろうか? それしても、ホジュンが逃げた距離がすごいよ。龍州(アムノック川下流)から 漢陽(ソウル)を通って、山陰(今の山清)まで、直線でも600km以上あるよ。東京から青森ぐらいの距離!このぐらい逃げなくっちゃいけないことだったんだわ。ホジュンが、薬草取りをする智異山を調べていて、首露王が思い浮かんだわ。首露王の奥さんも許氏だわね!首露王の時代は、2世紀ごろ、許浚は16世紀。許浚の父も祖父も武官の両班だというから、首露王の王妃 許黄玉の末裔かもよ?妄想はどんどん広がる。ホという男優・女優を調べてみた。ホさんには、あまり知ってる顔が少なかった。一番よく知ってる人で、ホ・テヒ。コーヒーハウスの出版社の社員。ロマンスが必要・マイプリセス・スターの恋人などの脇役として多数出演。ホ・ジョンミン。1%の奇跡でダヒョンの弟。ホさんの顔の傾向として、一重瞼の、やさ男タイプの男女が多い。 PS.許氏 Wikipediaより許氏の淵源は遠く駕洛国金首露王妃許黄玉に遡る。許皇后は本来インドの阿踰陀国の王女だったが、船に乗って今の慶南鎮海市運動沖合に至り、首露王の妻になったという。許黄玉は息子10人を生み、長男登は金海金氏となり、二人の息子は許氏を賜姓し、残りの七人の息子は仏家に帰依して、河東七仏(慶南河東に七仏寺がある)となった。つまり金海金氏は父姓、許氏は母姓をそれぞれ受け継いだため、現在でも相婚を避ける。許氏は駕洛国が新羅に敗れて、各地方に散らばった。その中の陽川許氏の詩調である許宣文は今のソウル市陽川区である孔岩村に腰を据え定住して、農業を営み、高麗の太祖が後百済の甄萱を征伐する時軍糧を補給した功労で孔岩村を食邑とする下賜を受けて村主になったという伝説がある。高麗中期に王室の外戚で勢力をふるった李子淵、李資謙など仁川李氏も元々は許氏だったが, 高麗時代に邵城伯(邵城は現在の仁川)であった許謙が、唐に使臣に行き、皇帝から李姓を下賜され、李氏となった。つまり金海金氏から許氏が、許氏から仁川李氏が輩出されたということで、これら3姓は駕洛宗親会を中心に血族としての紐帯を緊密に結んでいる。許氏は朝鮮時代文科及第者122人、相臣6人を輩出した。・・・つまり、金海金氏・許氏・仁川李氏は、遠い親戚だってことだわ。