松本啓二朗の父・吉啓氏の高校監督時代
前回書いた「松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?」の続き。松本吉啓氏の明治大時代のことはあまり分からなかったのが残念だったけど、卒業後に明治生命に進み全国制覇、その後、1992年頃(?)に岩手・盛岡大学野球部の監督に就任した。盛岡大では4年間監督を務め、北東北大学リーグの2部に低迷していたチームを95年春に2部で優勝させ、入替戦にも勝利し1部昇格に導いたようだ。※当時、長男・啓二朗(現・横浜、千葉経大付高-早稲田大)は盛岡市にある少年軟式野球チーム「青山スワローズ」で活躍していたようだ(小学校1年~4年まで)。そして97年8月に埼玉栄高の監督に転身、98年夏と00年センバツの2度、チームを甲子園に導いた。忘れられないのは98年夏。主砲の大島裕行(当時2年、現・西武)が、初戦の対沖縄水産高戦で新垣渚(現・ホークス、九州共立大)から、逆転勝利を決める特大本塁打を右中間に放ったシーン。実力的にも、そして栽弘義監督(故人)のネームバリューからも、埼玉栄高が不利と思われていたが、大島の本塁打がその前評判を見事に覆してみせたのだから。01年秋、県大会で8強の壁を破れないでいた千葉経大付高の理事長・佐久間勝彦氏から「日本一の野球部を作ろう」と声をかけられ、同校の監督に就任した。朝日新聞に、当時のことを紹介した記事があった。当時の千葉経大付の野球部は総勢18人。千葉市若葉区にある同校グラウンドの草むしりから始めた。「練習量より心が大事」として、練習時間は2時間までとした。松本は現役の時、桜美林は朝から晩まで厳しい練習をしていたため、多くの部員が退部した。「練習時間が長くなると力のない子はどこでさぼろうかと考えて、練習に来るのが嫌になって、いずれ辞めてしまう」限られた時間の中、「長所を伸ばす練習」をする。打撃に自信がある部員には徹底的に打つ練習をさせる。代打で試合に出場できるかもしれないからだ。一つの長所からレギュラーを獲得する選手も数多く出てきた。「選手が希望を持って練習できるようにする。結果として甲子園につながる」その指導法が効を奏してか、就任後、チームは4度も甲子園に出場。そのうち2度はベスト4入りを果たした。特に04年夏の3回戦で、長男・啓次朗をエースにダルビッシュ有のいる東北高を延長10回の末に破った試合は名勝負だった。その後、次男・歩己(現・早稲田大2年)とも甲子園出場を果たし、原貢・辰徳親子を凌ぐほどの「父子鷹」ぶりを見せている。 今日も1クリックお願いします