「化粧」と「秀才」、「すっぴん」と「天才」
先日、「今出小」の先生が「女性の化粧とすっぴん」について、テレビで語っていた。途中から、昔の思い出にひたってしまったので、内容は聴き取れていない。ちなみに、自分がおもう「化粧」と「すっぴん」は、こんなところ。ていねいな「化粧」は、美しい姿を具現化したいという、「向上心と努力」のあらわれ。「秀才」ということばと、通じるものがある。「すっぴんでも美人」というのは、そう生まれついたのは「幸運」であるけれど、それを活かすもコロすも、本人次第。まぁ、「天才」の1種類だと思う。でもって、「努力」は評価されるべきものだから、気合のはいった化粧をしている方々には、「おきれいですね」と、敢闘賞をおくるべきだと思う。さて、くだんの思い出なのだが、、、。学生のころだからもう30余年の昔、校内をほっつき歩っていると、「あ、今すれちがったひと、美人だったね。」と、突然にいう知人が数人いた。なんかのドラマの影響だったのだろうか。当時も今も、知らぬ人と目線があうことに強くない自分は、たいがい、その美人を見逃している。そういう発言は、ほとんどは男子。見逃してばかりいる自分は、「そうだったかなぁ。」と興味のなさげな返事しかしないので、「おめぇ、すげぇ、メンクイだなやぁ。」と、揶揄された。とある女子には、「見てなかった。」と、ありのままに答えるのだが、そこで会話がプッツリ。「なんせ、この「とある女子」が、化粧しているところは一度しか見せたことがない人物で、「向上心と努力」のカケラもないのに、なんで「通りすがりの美人」を気にするのか、大きすぎる「謎」、、、。努力をしていないひとが、「他人の努力」をうんぬんしても、なんだかなぁ。。。こんな思い出にひたっていたので、林先生のご高説を聞き逃しました。くだんのと「ある女子」は、その頃は、げっ歯類(ネズミかウサギか)のような印象の顔で、一昨年は仔ザルのような顔をしていた。あいかわらず、化粧っ気がなく、その分野での「向上心と努力」は見られなかった。笑顔が、すっぴんでもすてきなので、変に修正をくわえることもない。その昔、ただいちど、口紅をつけていたときも、ベタベタに塗られた紅が、右の耳へむけて一センチ弱ほど引っ張られていて、「努力」のあとはあるのだけれど、「準備不足」な感じがきわだっていた。秋のことだったと思うけど、仮装イベントかハロウィンか、そんなのだったのかな。品のよくない留学生数人に、チヤホヤと囲まれていたっけ。米国人の留学生は、根も葉もなく、「ビューティホー」を連発するのだけれど、ここらへんの評価の精度は、英語力検定には関係ないのだろうなぁ。。。あるいは「単なる社交辞令なので、深く考えずに、多用することが望ましい。」という設定かも。おっと。。。。( 行先知らず。 今日も、変なところで タッチダウンします。 )