11/3 文化の日
11/3 文化の日本日、38歳になった。年々、父の性格や思想をことごとく受け継いでいるなと痛感する日々だが、歳を重ねるに連れ、父をより理解できるようになってきた気がしている。父は、休日になると時間の許す限り読書をしていた。何を読んでいたかははっきり言って知らない。知る術もない。だって、私はその当時読書のドの字もしたことはなく、1mmの興味すらなかった。多発性硬化症(MS)になってまさかの想定外である読書にのめり込むようになってからは、小説から様々なことを教わり、その後の私の思想に大きく影響していったが、これが父に近付く道筋となった。父は、もしかしたら、生涯独身でいたかったのではないだろうか、と思う。母とは見合い結婚だが、母の事を愛していなかったとは言わない。私と妹という二人の娘も、愛する我が子だったと自負している。ただ、そもそも、結婚というものに対してはさほど突き動かされるものはなかったのではないかと想像する。自己犠牲を伴うもの、そしておぼろげで判然としないもの、どこか他人事であるかのような。家族という煩わしいものを持って、あくせく働いてそれへ人生を捧げるよりかは、一人で本を読んだりして自己を深めていく人生の方が性に合っていたのではないか、となんとなくそう思うようになっていった。父は毎日欠かさず日記を付けていた。実はまだ、それらを読むことができていない。そこにあることはわかっているのだが、まだ今ではない、そう感じながらもう17年以上という歳月が過ぎ去ってしまった。おそらくその日記には書かれていることだろう、私がそう思う所以を。父は53歳で死んだ。職場で倒れ、1週間後に亡くなったのだが、その間、家にいろいろな人から電話がかかっていた。私はまだ大学生だったし、父の仕事のことなど何も知らなかったのだから、誰からの電話だったか知る由もなかったが、ふと、ある電話のベルの音に、例の勘が働いた。プルルルル、プルルルル。「あ、たぶんお父さんが想いを寄せてる人からだ」果たしてその電話は女性からのものであった。母が出たので何もわからない。でも、私の勘は的中していたはずだと未だに思っている。特別に何かそういう既成事実があったとは言わない。父はそういう人間ではない。否、娘だからそう思いたいだけなのかもしれないが、それは実際間違っていないと思う。なぜってそれは父の思想に反することだから。それは清いことではないから。だが、かえって、娘としては、父が安らぎを感じていた人がいたのであれば、それはそれでよかったと思う。養子という肩身の狭い、抑圧された暮らしの中で、父は一体何を思っていたのか。日々何にすがって生きていたのか。誰にだって一つや二つ安らぎは生きる上で必要だ。実に、父を知ることは、私自身を紐解くような作業であるらしい。53歳。父の年齢になるまで後15年。遺伝や体質などから鑑みても、おそらく私は短命だろう。短命と言いながらもしぶとく生き長らえているかもしれないが、私にとってはずっと以前から53歳という年齢は一つの計り知れない大きな意味を持っていて、只ならぬ数字であることに変わりはない。今年は父の日記を読むことはできるだろうか。たとえ読めなくとも、娘としてまたもう一歩父へと近づくために努力を尽くそう。私は父を知りたい。追い付きたい。追い越したい。何一つ思い描くことのできない15年後、だがうとうととしている間に過ぎ去るであろう15年後、私は一体どこにいるだろう。