20年前の出来事
20年前の出来事私が不登校になったのは、高校2年生。始業式後すぐのことだった。その後2年間引きこもった末に、ピアノの先生を紹介してもらい一から猛練習し、ほんの少しだけ予備校に通って数学やら必要最低限の勉強だけをした。そして、当時の高校卒業資格なるものを取って、大学に入学した。高校は大学が決まるまで籍だけ残していたが、当たり前だが留年扱いになるので、3年間ほど幽霊の高校2年生だった。大学の周りの友達には、私が一つ歳上の理由をとやかく聞かれる前に「一浪した」と言っておいた。ほとんどみんなストレートで入学していたから、これがまた、私がグループに群れずに我が道を淡々と貫き通す良い意味での理由となってくれたと思う。きっと、私は異質な存在だったに違いない。それは、大抵不登校と言えば小学生や中学生を指すと思われるからだ。高校は義務教育ではないので、辞めたければ勝手に辞めてしまえばいい。もちろん、高校側の対応もマニュアルがないのか、しかも今でこそこんなに騒がれているが、当時は1997年、さほど社会問題ではなかった時代だったので、見事に「ほったらかし」だった。私などに割く時間はないと言わんばかりの対応だった。特に、1回目の高校2年生の時の担任はもう最悪だった。定年間近の家庭科の女性教師だったが、1年間の間にかかってきた電話は数回、1度だけ家庭訪問に訪れただけ。その1度の家庭訪問も、母が出したお菓子を口いっぱいに詰め込んで、ボロボロとこぼし、唾を飛ばしながら、ただ自分の考えをねちねちと言い含めるだけで帰って行った。2回目の2年生の担任は、今でも新年のご挨拶が続いている。保健体育のまだ若い男性教師で、家庭訪問こそなかったものの、何度も電話をかけてきてくれて、私が出たくないと拒否しても、母とはそれなりに会話をしていたようだった。保健室の先生と連携してくれたのも、この先生だった。予備校に通い始めた3回目の2年生の時も続けて担任をしてくれた。その間、私は数回保健室登校をした。私が通用門ではない門からこっそりと入り保健室へ忍び込むと、保健の先生が迎え入れてくれて、そこへ担任の先生がやって来て、3人で他愛のないおしゃべりをした。不登校になった者にとって、学校へ向かうことも、校舎を見ることも、ましてや校内に足を踏み入れるなんて、ものすごく勇気のいることだった。実際、今でも高校の前を通る時があればまだ少し構えてしまう。心臓はドキドキするし、汗は出てくるし、何度もこのまま引き返そうかと考える始末だった。だから敢えて授業中のしんと静まり返った時間を約束の時間に指定してくれたり、帰る時も誰にも会わずにさっと帰れるように計らってくれたり、梅雨の時期なら傘で顔を隠して歩いてこられるからと季節まで考慮してくれたり(猛烈にアトピーがひどかった時期でした)、この2人の先生には感謝している。私が大学に合格した時には、3人でお祝いをしようと言って、ご飯を食べに連れて行ってくれた。担任の先生は、「ちゃんと足の指の間も洗ってるかー?」などと言う人だった。おそらく、担任の先生が奇異な目で私を見ることもなく、何が何でも学校に来いと言うこともなく、(一応進学校だったから)勉強の遅れを指摘するでもなく、変に気遣うこともなく、至って自然な振る舞い方をしてくれたから、私はこの苦しかった高校時代を乗り越えることができたのだと思う。かけてきてくれる電話の回数も、多くもなく少なくもなく、というのは、多すぎるともうほっといて!と言いたくなるし、かと言って1年目のように極端に少なすぎると私はクラスの一員ではないと思ってしまう。ちょうど私には良い加減だったのだ。あれからもうすぐ20年…。今振り返ると懐かしい。保健の先生は元気にされているでしょうか。(うろ覚えだけど、当時中学生の2人の息子を持つお母さんだったが、確か学生時代は病気で車椅子だったと言っていたと記憶している。)担任の先生は、もともとラグビーの選手だったらしく、昨今のラグビーブームが誇らしいようですよ。