『ココ・アヴァン・シャネル』
有楽町マリオンで映画を観終わった後、通りの向こう側のニュートーキョービルの地下にあるイタリアンレストランでランチを取ろうと考えた。ところが、この店。メインのスバゲティ以外はビュッフェスタイルのせいか、混んでいた。それでも、すぐに席を通されて、待つこちしばし。ところが、私の後から来た4人のグループの方にウェイトレスが先ず水を運んでオーダーをとった。よくわからないので、様子をみつつ、そのあとに私もオーダーをたのんだ。ところがそのあとも、私の席に水はとどかない。嫌な感じがしたのだが、それは当たっていた。先に頼んだ四人組にスパゲティがだされ、そのあとに席に着いた二人にも、料理がきたのに、私にはまだこない。しかたないので、去ろうとするウエイターに、まだ料理が来ないこと、自分が先に着ていることをつげた。すかさず、ウェイターは、スパゲティをもってきたのだけれど、それが私の頼んだものとちがう。6分かかるけれど、いいですか、といわれしかたなくまった。こんなにまずいスパゲティをたべたのは、はじめてかもしれない。味だけが料理のすべてじゃない。ウェイターの人もウェイトレスの人も謝ってくれたけれど、それで私の不愉快が消えるわけでもない。とても情けなくて、いやーな気分で、悲しくて、一日ずっと憂鬱な気分だった。水はでないし、オーダーはまちがわれるし、しかも、他の人たちより後回しにされていたし。どう考えても、ただのミスというより、作為的ですらあったようなきがする。私の行動のなにかが、店側にこんな行動をとらせたのだろうか?だとしたら、それはなに?禁煙席を指定したから?安っぽいティーシャツ姿だったから? そのほかにも、デザートのコーヒーゼリーは、ものすごくまずかったし、もうひとつのミックスフルーツはあきらかに、缶詰だし。コーヒーメーカーのコーヒーは、ぜんぜんでてこないし、サラダのさらにサラダはぜんぜんなかったし。これのどこがビュッフェなのですか。 ものすごくひどいお店だった。安いから混んでいたのかもしれないけれど、もう二度と行きたくない。しかも、しっかり代金は、とられたし。 それにしても、最近は外食するとどこのレストランもひどくて、すごくなさけない気分になることが増えた。ロイヤルホストは、油ギトギトの、メタボリックなメニューばかりだし。メニューをはしからはしまで何度見ても、たべたいものがなくて、30分もえんえんと悩んで困ったこともあるし。以前は、おいしいおみせだったのに。 世の中の不景気をひしひしと感じてしまいます。 ところで、このお店であじわった不愉快な気分は、ココ・シャネルが味わった感覚はまさにこんなだったのだろうと、私に感じさせた。映画の中で、使用人たちが働く台所で食事をとるココ。しみのついたよごれたナプキンに文句をいうと、使用人から「あなたはこれで十分です」といわれるシーンがある。 ココのいるすぐ後ろで「ご主人様の愛人はブサイクだ」と、聞こえよがしにいう使用人たち。 そして、ココを愛人として屋敷にすまわせるバルザンにも、男に奉仕するためだけの存在としてさげすまれるような扱われ方をされる。 使用人にも愛人にも、馬鹿にされ、軽く扱われたココの味わっていた感情はたぶんちょうど、私がレストランで映画を見たその同じ日にあじわったのと同じ感じだ。彼女はずっとこの不愉快をその人生の中で味わい続けたのだろうか。 そして、この時代。彼女だけでなく、女性たちもまた、男にとっての飾り物でしかない。男に寄生していくことでしか生きていくことができなかったのだろうか。女たちが、レースやリボンやフリルのタップリついたドレスで着飾っているのを見た時、ココは言う。 「デコレーションケーキみたい。」 それは、女たちが男のための飾り物の存在として扱われていることをあらわしている。そして、ココのような身分の低い女性だけでなく、貴族の妻たちでさえ。 ウェストを締め付ける苦しいコルセットや、頭をふるたびに落ちそうになるような飾りだらけのチンプな帽子。デコレーションケーキのようなドレス。男のために不便を我慢して着飾る女たちを見た時、シャネルは何を考えたのだろう。 男のためでなく、ドレスを着る女性自身のきごこちのよさのためにあるドレス。男にたよらず、自分自身の力で生きていくためのドレスをココは作り始める。愛人のバルザンやボーイ・カベルの男物の服をリメイクして着始めるココ。今でこそ、ズボンもボーイッシュな服もシンプルな服もしごく当たり前なものだけれど、この時代にズボンをはき、男物の服をきるココは、どれほど奇異にみえたことだろう。 フリルもレースも、リボンもないシンプルな黒いドレスを作り出したココの感性は、この時代に、いきなり、100年の時間を飛び越えるほどの革命でもあったろう。 ココシャネルの服は、ただデザイナーがきれいなかわいいファッションとして作る服なのではなく、女性が自立して生きていく、男のために着飾ったり、我慢したり、苦しい思いをしたりしない服なのだ。だから、その基本のスタイルは、100年たっても、200年たっても変わらない。 シャネルというブランドは、自分の心のままに生きていくというココの思想そのものが、服になったものなのだと、この映画をみてはじめてしりました。 けれどシンプルで自由を意味した、有名なシャネルスーツは、今では、お金持ちのステイタスであり、豪奢なものというイメージをもち、彼女が本来語ろうとしたものとは、別のものになってしまっているようでもあります。 シャネルというブランドもまた、お金持ちでないと買いずらいような高価なものとなってしまっています。あるいは、男性の接待をしてお金をかせぐ水商売の世界の人たちに愛用されてしまっているという、なんとも皮肉な今の日本のシャネルという存在。 なんとも、皮肉です。 けれど、ラストにヒロインココがきているシャネルスーツは、とてもきれいでした。それにしも、オドレイ・トトゥさん。アメリだけのはまり役でなく、どんな役でもこなしちゃうんですね。映画の中でだんだんきれいになっていくところが見所です。『ココ・アヴァン・シャネル』公式サイト ココ・アヴァン・シャネル@映画生活