ヒーロー映画のウソ/『新世紀エヴァンゲリヲン・序』
ひるむことも、びびることも、怖がることも、パニックになることもなく、敵に向かっていく映画の中のヒーローの行動がいかにうそ臭いかにきづかされたのが、どの映画を見た時なのか、どうしても思い出せないのだけれど。 実際にもしも自分がその立場になったら、怖くて怖くて、勇敢に立ち向かうというよりは、敵前逃亡で逃げ出しちゃうだろうと思う。先日、『エヴァンゲリヲン/序』がテレビのゴールデンタイムで放送されたりするものだから、普段ぜったいみないような人たちが、見ていた。簡単にチャンネルさえあわせられれば見られるという状況で、みている人が多かったのではないだろうか。 そんな状況で、ただの娯楽ヒーロー映画のつもりでみている立場であれば、主人公のシンジが切れたり怒り出したり逃げ出したりするのは、ただのヒーロー失格の勇気のないうじうじした人間にしか見えないかもしれない。 けれど、もし自分が、本当に戦場に立たされた時のことを想像すれば、その怖さは、相当なものだ。しかも、自分の一人の行動が、地球上の全人類の存亡にかかっているとすればなおさらだと、思う。ほんの一瞬の判断が、あやまるだけで、負けるし、死ぬかもしれないし、人類滅亡になるかもしれない。(たかが、14歳の子どもに人類の命運がまかされるとい設定はどうよ、というようなことは、また、とりあえずひとまず、おいといてですが。) プロの兵士でもなければ、軍隊のような特殊な訓練もまだまだ受けていない状況で、いきなり、自分にしかできないといわれて、戦闘を強要されるとしたら、その精神的なプレッシャーたるや、相当なものなのではと、思う。 私ならたぶん、絶対エヴァンゲリヲンに乗らないだろうし、乗ってもそのまま逃げ出すかもしれない。 ぐずぐずしている間に、死んでるかもしれない。 いくつものヒーロー映画を見ている中で、ヒーローなら戦って当たり前と、思い込んでいた。でも、そんなことのできる人間なんて、本当にいるのだろうか。だから、最近、アメリカのヒーロー映画でも、人間的にとまどい悩み、あるいは、酒におぼれたりするヒーローたちが描かれ始めている。 あの状況でいきなり、勇敢に戦えるほうがよっぽど特別で、おかしいのだと、思う。 そんな中で映画でも、碇シンジがエヴァンゲリヲンを拒否して、逃げ出す場面がある。ものすごく当然な行動だと思うし、自分の中でエウ゛ァンゲリオンに乗ること、戦うことを受け入れるためには、一度徹底的に拒否して、自分の中の本当の本音に向かい合わなければならなかったのだろうと、思う。全てをとりさった中でも、それでも、乗りたいと思うのか。必要だと思うのか。自分の中に少しでも、戦うことに向かう気持ちがあるのだろうか。 この手の物語を見るといつも思い出すのが漫画の『エースをねらえ!』なんだけど。主人公の岡ひろみもまた、自分にかかるプレッシャーのきつさのなかで、一度はテニスを捨てる。けれど、離れてみてなお、やはり自分がテニスを好きでテニスやりたいことにきずいた時、彼女はもう一度テニスに戻ってくる。 シンジの前にすでに、エヴゥンゲリヲン0号機にのっている綾波レイもまた、一度は、エヴァンゲリオンに乗ることを拒否したのではないだろうか。物語では、描かれていないけれど、シンジが登場するずっと前、まだ、エヴァンゲリヲンにのるパイロットがレイ一人だけだった時にも、乗る乗らないの葛藤があったりしたのだと、思う。その時の数々の闘争を経験しているからこそ、ネルフのスタッフは、みんな、シンジの戸惑いや苛立ちに対しても、搭乗拒否にしても、冷静でいられたのだろうと思う。 レイは、もしかすると、一度戦闘中に死んでいるのかもしれない。物語の後半で「私はたぶん三人目なんだと思う。」という言葉が出てくる。テレビ放送本編では、物語の中で一度死んでいて、クローン再生されているのだ。それが三人目の体なのだとしたら、シンジの登場以前に一度死んでいるのかもしれない。それはやはり、シンジ以上にエヴァンゲリオンに乗って戦うことへの拒否や、戦死や、闘争、パニック、があって、かつてのネルフスタッフたちは、彼女の精神的なバランスをとることにそうとう苦労しているのかもしれない。 だからこそ、棟方仁が岡ひろみの精神的なフォローをしていたように、碇指令は、時々レイと食事をしたり、優しい言葉をかけて、レイをフォローしているのだと、思う。けれど、後からやってきたシンジには、そのことはわからない。なぜレイが、自分が悩んでいることを平然とこなせるのか、なぜ傷だらけになりながらもエヴァンゲリオンに乗り続けるのか、なぜシンジの父親である碇指令がレイに対しては、あんなにも優しいのか。 けれど、碇指令もシンジに対しては、レイに対するような優しさは、見せない。男の子は、女の子とは違うからだ。女の子は精神的にフォローしてあげたり、優しくしてあげる必要があるけれど、男の子の場合は、ある程度突き放して、厳しくし、自分自身の内側の葛藤をのりこえていかなければ、成長していけない。女の子に対するような優しい接し方では、成長を逆にはばんでしまうからだと、思う。 一見冷たいようにみえるけれど、碇指令は父親として、ちゃんとシンジをみていると、思う。 激烈な戦場で戦っていくのは、テレビのこちら側でスイカを食べながらのんびり観ている側には、想像しにくいのかもしれない。 だからいま、よりリアルなヒーー物語として、『エヴァンゲリヲン』は、多くの男性たちの評価をえているのだと、思う。 真希波・マリ・イラストリアス 自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』の感想はこちら