ウイグルの現状は、「植民地支配」 (はんぺん)
ウイグルの現状は、「植民地支配」 (はんぺん)在外のウイグル人の90パーセント以上が、3年ほど前から、東トルキスタン国内の家族や友人と連絡が途絶えたままだという。中国共産党による(情報遮断)は、明日の台湾、明日の日本、明日の世界ではないだろうか・・・ 今現在、この地球上で、まことに戦慄すべき事態が進行していることに、僕は身震いする。この2021年のいま、こんな惨状があって良いモノだろうか?! この惨状に見て見ぬふりを決め込むことは、決して許されないと思うし、リベラルたちも含めた日本の知性と理性の敗北を意味するのではないか? 「ウイグルジェノサイド」から・・・・ 「中国は、1964~1994年まで、この東トルキスタンの地で、計46回もの核実験を行っている。その威力は、広島・長崎に落とされた核の1,300倍と推定されている。にもかかわらず人々の命を脅かす核災害の実態について、今でもそのデータを一切公表していない・・・」(102ページ) 「ウイグルは、近現代史だけに限っても1933年に「東トルキスタン・イスラム共和国」として、また1944年「東トルキスタン共和国」として、2度にわたって独立を果たしている。本来、独立国であり、その意志を持つウイグルが、中国によって侵略されていること、それが、問題の本質だ」(ウイグルジェノサイド、229ページ) 1949年、「東トルキスタン共和国」は、中国軍により軍事占領されてしまう。そして、ウイグル全土が(収容所群島)と化していくことに・・・ 中国全体主義によるウイグル民族絶滅政策の内容を見れば、実に巧妙だと思う。「強制収容所」の建設は、2010年から始まったこと、「強制収容」のための全ての準備が、人知れずにだが急ピッチで進められて、2015年の終わりには既に準備が終わっていたことが、知られている。 「2014年に国家主席の習近平のウイグル政策の指導を暴露した文書が、2019年11月16日付けのニューヨークタイムズに掲載されている。「無慈悲であるべき国内外の敵性勢力の戯論も気しない・・・」と習近平の言葉から、国際社会の批判と漢民族・ウイグル民族間の摩擦を無視することに徹し、ウイグル人を消す決心をしたことが読み取れる」(176ページ) 「ウイグル社会において強制収容所行きを命じられたのは、ウイグル社会の文化と社会を担う知識人・宗教指導者・経済的に基盤がしっかりしている豊かな人々などが中心になっている。」(177ページ) これは、ICJJが、入手した共産党の㊙文書だ。「『一体化統合作戦プラットフォームに関する、新疆ウイグル自治区共産党委員会の2017年の日報』6月25日 一体化統合作戦プラットフォームが2017年7月19~25日に新キャン南部4地区で24,412人の疑わしい人物を特定し、当局に通知。調査の結果、706人が刑事手続きで拘束され、15,683人が教育訓練に送られた。一体化統合作戦プラットフォームが特定した人物は、安定を脅かす潜在的リスクだ。通知に基づきゼンチクは、「拘束、教育と訓練、尋問と留置、予防と統制」という各段階の措置を適用せよ。」(178ページ) 「中国政府は『強制収容所』存在を一貫して否定し、テロ思想に染まった人々を再教育する『再教育センター』、ウイグルの人々を貧困から救うために造られた『職業訓練センター』と称している。そして「我が国の対テロ対策」は勝利したとも宣言した」(169ページ) 「300万人が不当に拘束されている事実。 2014年の統計で23,000万人の人口の『新疆ウイグル自治区』の48.5%にあたる1,130万人が、ウイグル人だ。その3割のウイグル人が「強制収容」されている事実に、世の中の人々は、無関心を決め込んでいるとしたら・・・」(169ページ) 「西側の研究者やジャーナリストは・・・「再教育センター」を1940年代前半にナチスドイツが作った「強制収容所」や、スターリン時代にシベリヤに作られた「グラグ」に例えた。ウイグルを「世界最大の野外刑務所」とも呼んだ。」(170ページ) 「住んでいる住宅街と家の中までもが監獄になった・・・2016年から、各ウイグル人家庭と住んでいる地域に、何重にも及ぶ監視システムが出来上がって、ウイグル人は家の中でも不安なまま過ごさなければならなかった。私は、収容所で見たことなどを夫にも話すこともできなかった。私たちの家の中の私生活までもが当局の監視下にあり、コントロールされていた。」(157ページ) 「2017年から、警察官が時間を問わず家の中に突入して、家の中を調べたりすることは日常茶飯事になった。2017年の中頃までには、夜中に家から突然連行された人々が多くなり、私の居住地域に住む600人の内、190人がいなくなった。」 「いつ私たちの順番が来るか分からなかったので、夜は服を着たまま休んだ。大勢の人々が寝ているところ、服を着る間も与えられず、頭に頭巾を被せられて連行されていたので、私たちは、服を着たまま寝ていた」(157ページ)