(殺し合い)が・・・当たり前の学生運動だった!! 内ゲバ その3 ウイキペディアから・・・・
(殺し合い)が・・・当たり前の学生運動だった!! 内ゲバ その3 ウイキペディアから・・・・^ a b c 犯罪白書^ a b c d e f g h i 昭和50年 警察白書 第7章 公安の維持 3 暴走を続ける極左暴力集団^ a b 川口事件と現在 1.内ゲバの歴史|外山恒一|note^ 昭和48年 警察白書 第7章 公安の維持 表7-9 内ゲバ発生状況(昭和43~47年)^ 北田暁大, 白井 聡, 五野井郁夫『リベラル再起動のために』p.38^ 謀略粉砕・走狗一掃 - 革マル派^ カクマル批判アーカイブ - 中核派 ^ 「業をにやしたマル学同側は、近くの材木屋から大量の角材を買ってきて、これで武装して突撃した。これが角材が登場したはじめての事件であるとともに、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバのはじめである。(略)この角材によるゲバを指導したのが、マル学同に移行した清水丈夫全学連書記長である。 (略)しばしば、今日の殺し合いにまでエスカレートした内ゲバが、どこからはじまったのかの議論になると、結局、このときの角材使用開始にまで話がさかのぼっていく。 マル学同は、ほぼ全体が革マル派に移行したが、清水氏は後に中核派に移行したので、この日まで議論をさかのぼらせても、互いに相手側に責任をなすりつけあうことになる。」(立花隆 1975, 上巻) ^ a b 立花隆 1975, 上巻^ 「10月6日に日比谷公園でおこなわれた全学連の統一行動で、やっかいな問題が起こったのだった。法大処分闘争に関する中核派のビラの中で、ブントと解放派が批判されていたのだが、これに怒った解放派の全学連書記局員が中核派の書記局員・丸山淳太郎さんを殴ってしまったのである。その場はなんとかおさまったが、明くる7日のこと。8日の行動の打ち合わせで法政大学に行った解放派の書記局員・渡木繁さんと高橋孝吉さんを中核派が拉致し、長時間のリンチをくわえる事態になってしまったのである。大闘争の前日に、三派全学連はとんでもないことになったわけだ。中央大学に集まっていた社学同や解放派は堂の長椅子を解体してゲパ棒を作ると、法大に押しかけて抗議し、解放派の書記局員を救出した。双方がゲバ棒を押し立てての対峠だったけれども、さいわい直接の衝突はなかった。」(荒岱介 2008) ^ 高木正幸『全学連と全共闘』^ a b c d e f g h i j k 昭和50年犯罪白書,第3編第2章第3節過激派集団の犯罪,1975(昭和50),法務省^ テロ・ゲリラを展開し暴力革命を目指す過激派『焦点269号、警備警察50年』警察庁平成16年^ a b c 毎日新聞社 1998^ 「前日に続き反帝全学連の主流社学同統一派と反主流の社青同解放、社学同ML両派が乱闘し、全学連大会流れる」^ 「9/11 3日間、中核派と民育系が乱闘した法大で1000人超す一般学生が両派を学内から追い出し事態収拾」(毎日新聞社 1998) ^ 「11/11 大学統合移転で紛争の静岡大法経短大学部で、大学占拠をめぐり代々木系と反代々木系学生が乱闘、40人けが」(毎日新聞社 1998) ^ 「『大衆団交』貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する日共系学生と乱闘となり、約70人が負傷。」「図書館封鎖で全学封鎖めざす全共闘と代々木系が角材で乱闘」(毎日新聞社 1998) ^ 「教養では代々木・反代々木の衝突に教官がスクラム組み割り込んで拡大を阻止。」(毎日新聞社 1998) ^ 「図書館前(本郷)で学生5000人と教官800人による提案集会が3時間余開かれるが、加藤総長代行の発言はたった3回、しかも『なぜ、私のいうことを聞いてから議論しようとしないのですか』がただ1回ハッキリ聞こえただけ。大学当局の『提案集会』に対して全共闘は『粉砕』、日共系は『阻止』集会で対抗し加藤代行を奪い合ったため。流会後、両派が衝突を繰り返した」(毎日新聞社 1998) ^ 解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。1968年11月もおしつまったある日、「党派折衝」に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った。(高原駿『沈黙と軌跡』) ^ 『12・8緑会のビラ』「ながらく早大で第1政経自治会、文連、東大闘争等をめぐり争っていた革マルと社青同解政派」(毎日新聞社 1998) ^ 『12・8緑会のビラ』「革マルと社青同解政派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5 日夜 10時頃 東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った。」(毎日新聞社 1998) ^ 「12/6 東大教養学部駒場寮で社青同解放派の部屋に早大等の革マル派とみられる学生約50人が角材・白ヘルメット姿で押しかけ乱闘、止めに入った寮生8人が負傷」(毎日新聞社 1998) ^ 「教養学部での反代々木系革マル派と社青同解放派の学生同士の対立激化し、駒場察前で200人が衝突」(毎日新聞社 1998) ^ 「警視庁は田村二郎教養学部長に対し『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す」(毎日新聞社 1998) ^ 「東大教養学部で全学集会への学生代表団を選ぶ代議員大会を開こうとした全学連行動委員会(代々木系)、一般学生有志とこの大会に反対する全共闘が構内で衝突、乱闘で教官ら23人けが。午後代々木系が他大生含む角材持った500人の行動隊で守りを固め大会を強行し代表選ぶ。法学部学生大会でスト解除案否決」「6日からの争いで重軽傷者は計128人を超えた。」(毎日新聞社 1998) ^ 「上智大でバリケードを撤去しようとする一般学生・代々木系学生とこれを阻止しようとする反代々木系学生が乱闘」(毎日新聞社 1998) ^ 「反代々木系学生同士がまた衝突、一部は井の頭線駒場東大前駅ホームでも乱闘したため、機動隊が出動し13人逮捕」(毎日新聞社 1998) ^ 「法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が投石、殴り合い。反代々木系50人が飯田橋駅に逃げ込み、国電ダイヤ乱れる」(毎日新聞社 1998) ^ 「反代々木系学生間の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり、2人重体、12人けが」(毎日新聞社 1998) ^ 「12/24 東大医学部学生大会に全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」(毎日新聞社 1998) ^ 「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。 火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。 追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。 次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ビン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と闇の中から言い返してきた。」(荒岱介 2001) ^ 「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。 なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。 夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。 夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた。」(荒岱介 2001) ^ 「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。法文一、二号館のバリケードがその結果解除された。 この攻撃は11日午前中まで続き、全共闘側は火炎ビンを投げて抵抗した。本郷にやってきたのは地区民(地域の日共党員)で、1000名はゆうにこえる大部隊だったという。」(荒岱介 2001) ^ 「事件の経緯は、前夜の9月17日から始まる。中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり、武器を調達したという。 目標はただ1人、反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだ。(略)内部を知り尽くしている滝沢さんの手引きによる襲撃の前に、彼らは一気に蹴散らされた。 そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して、車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたようだ。拉致されたのは理工学部のTだった。ひと気の無い山道に放り棄てたらしい。 その頃、北浦和キャンパスには、急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。当初、襲撃したのは革マルだと思われた。バリケードの破壊は凄まじかった。埼大中核派も、滝沢さんを除いて駆け付けて来た。 彼らは何も知らされていない。襲撃を許さない、Tを何としても取り戻す。意志一致が進む。しかし後から戻って来た学生によって、「滝沢がいた、中核だ」という事が明らかになった。埼大中核派は、非難を一身に浴びて弁明する。 「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。Tが拉致された先は、芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がついた。今もこの瞬間、Tはリンチに遭っている。救出に行こう。志願者たちで行動隊を組織する。 (略)熟睡中に、不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落した。その1人、滝沢さんが死んだ。「内ゲバによる最初の死者」だった。」『狂おしく 悩ましく』元中核派・編集局員 ^ 高橋和己『内ゲバの論理』「九月一八日、『大学立法反対などでバリケード封鎖中の芝浦工大で、同校二号館にたてこもっていた反日共系全学闘の学生が、十人前後の学生に寝込みを襲われ、二階の窓から落とされ、うち一人がコンクリートの地面にたたきつけられて死亡、三人が重傷を負った』事件である。 事後にあきらかになった事実は、芝浦工大の二号館校舎にたてこもっていたのは、革マル、中核、四トロなど反代々木系学生。そして殺された滝沢紀昭はじめ負傷者はすべて中核系学生。 襲撃したのは、埼玉大学において中核派と対立していた反戦連合の学生二十余名。襲った理由は埼玉大学で中核と反戦連合が対立していて、前日に内ゲバがあり、反戦連合系学生一人が人質として芝浦工大へ連行されていて、その人質の奪還ないしは仕返しのために襲撃したものという。」 ^ 「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた。」(立花隆 1975, 上巻)^ 「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に、大乱闘をくり広げ、50人が負傷」(立花隆 1975, 上巻) ^ a b c 昭和52年犯罪白書,第一編第1章第4節過激派集団の犯罪,1977(昭和52),法務省^ 名大では学生同士乱闘『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版^ 警視庁「内ゲバ警戒報」出す 都内では昨年の倍『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版 3面^ 早大でまた内ゲバ『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月17日朝刊 12版 ^ 「豊島公会堂で開かれたブント政治集会では、叛旗・情況派ブロックとのゲバルト闘争になった。三上治が演説をしているさなか、会場脇の扉から青竹が次々に運び込まれた。こちらも用意していたので会場の中央でぶつかり合った。パチンパチンと竹竿で競り合うなかで、三上が声を張り上げて演説していたのが印象的だ。」(荒岱介 2001) ^ 笠井潔、絓秀実、外山恒一『対論 1968』 集英社新書、2022年、p.160-161.^ a b c d e f g h i 昭和53年犯罪白書,第二節過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯,1978(昭和53),法務省 ^ 「七一年の四・二八闘争で、ブント内分派闘争の決着をつける展開になっていった。当日は250人ぐらいの竹竿部隊が日比谷公園前で相互対峠し、集会参加者が見守るなか一斉にゲバルトになった。最初は(戦旗派と)赤軍派残党や関西派を中心にした21・18ブントとの対決だった。 ゲバルトそのものは牛乳ビンを投げ、鉄パイプを持った迎撃隊を作った私たち(戦旗派)の勝ちだった。竹竿でのゲバルト戦は、投石や欽パイプには勝てない。戦術をエスカレートしたほうがいつも戦術的には有利なのだ。 つぎは息をつく暇もなく、叛旗派の竹竿部隊が私たちの前に立ちはだかった。これも数秒で私たちの完勝だった。」(荒岱介 2001) ^ 「反帝学評約50人が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて前日から拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、9月15日午前1時45分ごろ、革マル派約150人がヘルメット、覆面、鉄パイプの武闘スタイルでこれを襲撃し、相互に多くの負傷者が出た。 この間にあって、反帝学評約20人、レンタカーを使って反帝学評の動向を視察していた革マル派2人を襲い、鉄パイプで殴る、突く、ける等の暴行を加えて両名を殺害し、現場から5キロメートル離れた浄水場裏に死体を遺棄した。」(警察庁 1974) ^ 「9月17日午前7時30分ごろ、都下国電鶯谷駅構内に中核派約150人が集合していたところ、突然鉄パイプで武装した革マル派約80人がこれに襲いかかった。このため、駅構内及び線路上で乱闘となり、山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。 この間、双方合わせて7人が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった。」(警察庁 1974) ^ 「10月20日午前4時ごろ、東京、横浜、京都、大阪の各地で革マル派約200人がいっせいに中核派のアジト12箇所を鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13人が負傷した。」(警察庁 1974) ^ 「世田谷区のアパート「ふく荘」前で引っ越し作業中、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 難を逃れたうちの1人は後の仏文学者石田英敬だった。「革マル派活動家石田君が、最近中核派に狙われているらしいと気づき、住所を変えようとしていた。この日、三人の友人に手伝ってもらって朝から引越し作業をしていた。 (略)石田君は二階から飛び降りて夢中で逃げ、引っ越しの手伝いにきていたもう一人の友人も逃げたが、富山隆君は逃げる途中でころんでしまった。そこを囲まれてバール、鉄パイプでメッタ打ちにされた。 また、二階にいた四宮俊治君も逃げられないでいる所を踏みこまれ、これまたメッタ打ち。」立花隆 1975 ^ 「わたしは引っ越しの当日に運良く逃げおおせた石田英敬のことを考えてみた。二十歳の時点で親友の同級生二人を目の前で殺害され、かろうじて生き延びた石田の心の傷と恐怖を想像すると、眩暈のような感覚に襲われる気がした。」(四方田犬彦 2009) ^ 『革共同通信』「一・二四の偉大なる戦果を実現したわが同盟と、そのもとに結集するたたかう全人民の志気はいよいよ高まり、その精神はいよいよ純潔である。(略)わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていくのである。」(立花隆 1975, 下巻) ^ 「(神奈川)横浜国大経済学部食堂内で、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「横浜国大でも革マル派活動家の矢崎知二君が6人の中核派に襲撃された。矢崎君は、おりからの昼食時で満員の学生食堂に逃げ込んだ。しかし、そこで追いつかれて引き倒された。そして、約三百人の学生が遠巻きに見守るなかで、一人が矢崎君の上に馬のりになって押さえつけ、他の二人が一メートルものバールをクワのようにふるって後頭部を打ちくだいたほか、全身をメッタ打ちにした。」(立花隆 1975, 下巻) ^ 「(沖縄)教室受講中乱入してきた中核派と思われる数人に人違いされ、鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「中核派の殺し屋8人は(略)70余名の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして、『自治委員長の安室はいるか!安室はどこだ!』とヒステリックに叫び、(略)その時、一人黒板の方向に走って退避せんとした比嘉君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれが、安室だ!殺れ!』と口ぐちにわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲いかかり、彼、比嘉君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである。 (『解放』)」「二・八は琉大カクマル幹部安室某に対する断固たる制裁として、またその革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅として圧倒的にうちぬかれたのである。(中核派)」(立花隆 1975, 下巻) ^ 「中核派数十人と法大から出たところを待ち伏せ中の革マル派に襲撃され、鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)94ページ^ a b 「アパート自室で就寝中、乱入してきた数人に鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)101ページ。同書などを見たところ、この時期、法政大学構内で行われた内ゲバで死者は出ていない。5月13日の死者は、法政大学外の路上。大学側の記録にもない。 ^ 「守口市中央観光バス前で、革マル派数人に鉄パイプで殴打され、入院中2週間後に死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「品川公会堂付近を歩行中、後方から追いかけてきた中核派数人に鉄パイプで殴打、同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「代々木駅付近を歩行中、後方から革マル派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「西区のアパート自室で就寝中、乱入してきた中核派数人に鉄パイプ、ハンマー等で殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「被害者ほか2人が荷物発送作業中、車2台で追尾してきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日1人が死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「アパート自宅で就寝中、鉄パイプ、まさかり等を持って室内に乱入してきた革マル派十数人に頭部等を殴打され、即死した。」(警察庁 1976) ^ 「マンション2階の自室で就寝中、鉄のはしごを利用して室内に侵入してきた中核派数人に鉄パイプ、バール、スコップ等で殴打され、1人が即死、1人は翌々日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者が川崎市役所裏出入口から外に出てきたところ、鉄パイプを所持して待ち構えていた中核派3人に頭部等を殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者が喫茶店内で電話中、店内に乱入してきた中核派3人に鉄パイプで頭部等を殴打され、同日死亡した。」(警察視庁 1976) ^ 「被害者が喫茶店内で飲食中、店内に乱入してきた中核派7,8人に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日、1人が翌日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者を含む4人がアパートで就寝中、室内に乱入してきた中核派数人に頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者を含む岡山大ノンセクト約60人が、岡山大オルグのためマイクロバスで乗り込んできたマル青同約30人と対じ中、マル青同が、マイクロバスを突込んできたためれき死した。」(警察庁 1976) ^ 「革マル派30数人が大阪市立大教養部内に入り、芝生でたむろしていたところ、中核派約40人に鉄パイプ等で襲撃され、2人が同日、1人は翌日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「路上を通行中、中核派3人に襲われて、鉄パイプで頭部等を殴打され、翌日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者を含む反帝学評系10数人が、歌手加藤登紀子の別荘に就寝中、室内に乱入してきた革マル派(人数不詳)に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 『昭和51年 警察白書』「被害者が東大教養学部生協食堂前で情宣活動中、反帝学評系十数人に襲われて、鉄パイプ等で殴打され、同日死亡した。」 ^ 殺害された学生は後の仏文学者石田英敬の駒場寮同室。石田英敬は、この2年前に目の前でやはり革マル派の友人を殺害されている。「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975年10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと。」(四方田犬彦 2009) ^ 後に劇作家となる野田秀樹はこの事件を至近距離で目撃しており、後の NODA・MAP 『贋作・罪と罰』などに大きな影響を与えている^ “『贋作・罪と罰』 - 賄いエッセイ - 野田地図”. www.nodamap.com. 2022年2月23日閲覧。 ^ 女性活動家に逮捕状 所沢の内ゲバ殺人事件『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月2日夕刊、3版、11面^ [「浦和市内ゲバ殺人事件」(4月)は、革労協が革マル派の自動車を前後からはさみ打ちにして停車させた上、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、発煙筒を投げ込んで炎上させ、乗車していた4人全員を焼殺するという極めて凶悪、残忍な事件であった。」(『昭和53年 警察白書』) ^ a b c d 昭和54年犯罪白書,第一編第二章第一節3,過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯,1979(昭和54),法務省^ 警察庁 1988 図1-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和53~62年)^ a b 「54年の内ゲバ事件も、中核派による「津市内内ゲバ殺人事件」(5月、三重)や革マル派による東京、神奈川の革労協アジト3箇所に対する同時内ゲバ事件(11月)にみられるように、多くは事前の綿密な調査活動を踏まえて、巧妙な攻撃を加えるという極めて計画的な犯行であった。」(『昭和55年 警察白書』) ^ a b 昭和55年犯罪白書,第一編第二章第一節3/2内ゲバ事犯,1980(昭和55)^ 「革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。」(『昭和56年 警察白書』) ^ a b 昭和56年犯罪白書,第一編第二章第2節/2内ゲバ事犯,1981(昭和56年)^ 「55年10月30日白昼、南千束の路上において、東京工業大生ら5人が、待ち伏せしていたスキー帽やヘルメット着用の集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨骨折等により5人全員即死した。この事件では、あらかじめ現場付近の電話線が切断され、逃走用等に盗難車2台が使われた。事件について、中核派は、「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」などと犯行を自認した(東京)。」(警察庁 1988) ^ 「革労協による「7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件」にみられるように、綿密、周到な事前調査の後、被害者が居住するアパート付近の電話線を切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部、顔面等を鉄パイプで乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『昭和57年 警察白書』 ^ a b 昭和57年犯罪白書,第一編第二章第4節2,1982(昭和57年)^ 「革労協による「2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件」は、事前に調査した上、付近の電話線を切断した後、ドアを破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部を鉄パイプ様の物で乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『昭和58年 警察白書』^ a b 昭和58年犯罪白書,第一編第二章第3節,1983(昭和58年)^ a b 昭和60年犯罪白書,第一編第二章第6節2,1985(昭和60年) ^ 「昭和59年の内ゲバの特徴は、中核派が成田闘争での主導権掌握をねらい第4インター日本支部活動家に対して行ったものが多かったこと、大学構内で3件の内ゲバ事件が発生するなど大学自治会の主導権をめぐっての対立動向が目立ったことである。」(『昭和60年 警察白書』) ^ 「60年の内ゲバ事件は、中核派が「新たな対カクマル10年戦争」を標ぼうしていることや、革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたことから、すべて両派の間で引き起こされ、そのうち4件は、革マル派が攻撃したものであった。また、12件の内ゲバ事件のうち6件は、学園での主導権争いがその原因とみられる。」(『昭和61年 警察白書』) ^ 昭和61年犯罪白書,第一編第二章第5節3,1986(昭和61年)^ a b c 昭和62年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1987(昭和62年)^ 「61年1月20日白昼、京都大学教養部構内において、中核派の全学連副委員長代行が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプ様のもので頭部を乱打され、脳ざ傷等により死亡した。革マル派は、「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した(京都)。」(警察庁 1988) ^ 「1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、 福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧を要請している。警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した。 」(『京都大学新聞 1986年2月1日号』)^ 「9月1日未明、埼玉、大阪、兵庫の3府県6箇所において、真国労幹部等がヘルメット、鉄パイプ等で武装した数人の男に襲撃され、真国労大阪地本書記長が死亡したほか、8人が重軽傷を負った。事件は、あらかじめ電話線を切断して窓等から被害者宅に侵入し、被害者に手錠をかけた上で、凶器で乱打するなどの残忍なものであったが、「国鉄分割・民営化絶対阻止」を叫ぶ中核派は、機関紙で「9月1日、…反革命カクマル分子を…徹底せん滅した」などと犯行を自認している。」(『昭和62年 警察白書』) ^ 「62年10月30日朝、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した(東京)。(警察庁 1988) ^ a b 昭和63年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1988(昭和63年)^ 平成元年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1989(平成元年)^ a b 「中核派は、平成元年2月8日に「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」を、革労協狭間派は、6月25日に「革労協狭間派元最高幹部殺害事件」、12月2日に「JR総連総務部長殺害事件」をそれぞれ引き起こした。これらの事件は、被害者を路上で待ち伏せしたり、就寝中を襲撃したもので、いずれもハンマー、バール等の武器を用いて多数で全身を殴打するという残忍な殺人事件であった。」『平成2年 警察白書』 ^ 「革労協狭間派は、闘争方針や戦術をめぐり、ここ数年来内部抗争を続けていたが、6月25日未明、埼玉県川口市内において、主流派の路線に反対する元最高幹部(43)の居宅を多数で襲撃し、ら致した上、撲殺し、茨城県下の路上に放置するという極めて悪質な内ゲバ事件を引き起こした(埼玉、茨城)。」『平成2年 警察白書』 ^ 平成2年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1990(平成2年)^ a b c d 平成6年犯罪白書,第3編第6章第3節2,1994(平成6年)^ a b c 平成11年犯罪白書,第4編第7章第5節2,1999(平成11年)^ 「革労協狭間派は、8年(略)5月14日、神奈川県内の私立大学キャンパス周辺において、革マル派系全学連学生等に対する内ゲバ事件を引き起こし、1人を死亡させた。」(『平成9年 警察白書』) ^ a b 「革労協狭間派は、5月に狭間嘉明を中心とするグループ(以下「主流派」という。)と山田茂樹を中心とするグループ(以下「反主流派」という。)に分裂した。両派は,その後,双方が切り崩しや引き戻しをねらった主導権争いを展開する中で、11年中、5件の内ゲバ事件を引き起こし,活動家3人が死亡,1人が重傷を負った。12年に入っても,両派は機関紙等で攻撃主張を強め,12年2月には3件の内ゲバ事件を相次いで引き起こし、活動家2人が死亡、2人が負傷した。」(『平成12年 警察白書』) ^ a b 平成13年犯罪白書,第1編第2章第4節2,2001(平成13年)^ 「5月、千葉県内において,主流派幹部活動家が反主流派非公然活動家とみられる数人の者に襲撃され死亡する事件が発生した。」(『平成14年 警察白書』) ^ 「16年6月2日早朝、東京都内の路上で革労協反主流派活動家3人が4、5人の男に鉄棒等で襲撃され2人が死亡、1人が軽傷を負うという内ゲバ容疑事件が発生した。」(『平成16年 警察白書』)^ a b 警察白書