230万人は、どのように戦死したのか? 毎日新聞
「天皇の戦争責任は、限りなく大きい」と言い続けなければ、多くの戦争犠牲者たちに申しわけない・・・ということだろう。ヒトラーは自殺した。ムッソリーニは民衆に処刑された。天皇の戦争責任は、問われず・・・生き続けた。 息子、娘を奪われた多くの国民には、納得できない現実だ。 (日本軍は自己の実力を顧みず、攻勢の限界線をはるかに越えました。餓死者が続出するのは当然のことです。私は戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。このような軍隊は古今東西にありません。人間をまるで、将棋の駒のように扱っている。) これが、「天皇の軍隊」の現実だった。これは、もはや、責任ある国の軍隊とは言えない代物(しろもの)だ。 東京大空襲では、約100,000、沖縄では約94,000、ヒロシマ原爆投下では、約140,000、長崎では、約74,000が殺されている。 前にこう書いた・・・ 天皇の「犯罪的役割」の冴えたるものは、あの太平洋戦争での「ヒロヒト天皇」の果たした役割だ。(彼にとって)幸か不幸か、彼は、多くの日本国民の命を左右できる立場に置かれていた。 そして、太平洋戦争の帰趨は少なくとも1944年7月に「絶対国防圏と目されたサイパンの陥落でおおよそ決まっていた。それでは なぜ、その戦争の終結までに1年以上もかかってしまったか!!! そのことで多くの人命が失われた。これを天皇の責任以外の何物でもない!! 強がりを言う大本営の参謀達を押さえつけ(=時間稼ぎせず)、半年前(昭和20年2月迄)に降伏していれば、フィリピン、硫黄島、沖縄で50万の兵士は助かり、悲惨な世界戦史上な尤も愚劣な特攻(死者約1万人)もせずに済み、本土爆撃(死者20万人)、原爆投下(死者10万人)、ソ連参戦による満州、朝鮮、樺太、千島列島の占領(ソ連軍に抑留後の死者約8万人)も受けずに済んだ。 つまり日本は半年早く負けて(降伏して)いたら約100万人ちかくの国民は助かったはずである。 天皇の「戦争責任」は、果てしなく大きいのだ。今でも、「天皇は、平和主義者だ」などという、ばかげた主張をする学者やマスコミが存在するが、白を黒という類の暴言だと断言できる。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 230万人は、どのように戦死したのか? 毎日新聞 日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937~45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。神風特別攻撃隊を題材にした小説、映画が話題になっている今。約4000人とされる航空特攻による戦死者以外の、229万人余はどのような最期を遂げたのか。そんな疑問から、データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】 .. 餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ 歴史学者・藤原彰氏の独自分析 「戦病死」とその他の割合・・・・ 戦病死その他39.1%60.9% 戦病死 1,400,000 その他 900,000 軍人・軍属の戦没者は、直接の戦闘で亡くなった戦死者と、従軍中に病気などで命を落とす戦病死に大きく分けられる。総務省、厚生労働省などによると、戦没者230万人を戦死、戦病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していないという。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、そもそも負け戦における記録の難しさなどが影響している。 一方、研究者の間では、日中戦争から太平洋戦争における日本軍の特徴に餓死者の異常な多さが指摘されてきた。歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は自著「餓死した英霊たち」(青木書店)で、厚生省(現厚生労働省)援護局作成の「地域別兵員及び死没者概数表」(1964年)などを基礎データに独自の分析を試みた。 例えば、44年3月にインド北東部の都市インパールの攻略を目標に開始した「インパール作戦」について、参戦したある中隊長が手記に「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した。 こうした地域別の数値を積み上げて、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと計算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。陸軍参謀本部、海軍軍令部をはじめとする日本軍の指導層が、兵站(へいたん)を軽視したツケを、末端の兵士たちが支払わされたといえる。 同著の「むすび」で、藤原氏は餓死がサンゴ礁の孤島や熱帯性の密林だけでなく、多くの人が暮らすフィリピン、ビルマ、中国大陸などでも起きていることを強調。「輸送補給、休養や衛生といった軍隊生存の必要条件までもが作戦優先主義のために軽視または無視された」と、作戦参謀らのエリート軍人を批判している。 .. 戦線拡大の果て、戦没者 広大な地域に 当時の日本にとって、戦争の継続に必要な石油、鉄鉱石、ボーキサイト、ゴムなどの戦略物資を確保するため、南方の資源地帯の確保は死活問題だった。南方資源による自活自営体制を確立したうえで、防備を固め反攻に出てくるであろう米軍を迎え撃つことが、当初の戦略だった。 しかし、真珠湾やマレー半島などにおける緒戦の戦果が、目をくらませた。日本本土とハワイの中間地点にあるミッドウェー島、オーストラリアに隣接するニューギニア島の占領を目指すなど、日本軍は国力の限界を超えた作戦を多方面で展開。特に地上戦では補給が途絶し、損害を拡大させる主因となった。 厚生省(現厚生労働省)援護局は1964年に国会からの要求を受け、「地域別兵員及び死没者概数表」を発表。日中戦争が始まる37年から太平洋戦争が終わる45年までの軍人や軍属の戦没者(当時の発表では総数が212万1000人)について、地域ごとに内訳を示した。左図の通り、南洋諸島、東南アジア、中国大陸などにわたる広大な地域で、膨大な数の日本の軍人や軍属が命を失ったことが分かる。 深刻な戦力不足で民間人「根こそぎ動員」 連合国の素早い反攻で制空権と制海権を奪われた日本軍は、多大な出血を強いられ、敗走時にはさらに損害を拡大させた。太平洋全域に広がる大小の島々などに逐次投入された兵士たちにとって、補給が途切れた中での死守命令は玉砕に等しいものだった。政府・軍部は、国民の根こそぎ動員で戦争継続のための戦力を補充しようとする。 1944年には、本土防衛や戦争継続のため必要不可欠な領土とされた「絶対国防圏」が破られ、台湾、あるいは沖縄への米軍侵攻は時間の問題となっていた。米軍は主要な拠点以外は素通りし、島伝いに日本本土へと迫る「飛び石作戦」を展開。無視されたトラック島などに駐留した多くの日本軍守備隊は遊兵となり、餓死の危機に見舞われた。陸軍参謀本部は旧満州・中国の部隊を南方戦線へ転用し続けたが、輸送船が撃沈破され、海没する部隊が相次いだ。 こうして戦力不足は深刻化する。そんな状況がよく分かるのが、「『現役兵』と『召集兵』の人数の推移」のデータだ。「現役兵」は主に、徴兵検査で合格し入営した兵の数。徴兵検査時には「現役兵」には適さないとされた人々が、その後「赤紙」で召集された場合は「召集兵」として扱われた。また、「現役兵」として兵役を終え、2度目に召集された場合も「召集兵」となった。そうした召集兵は、太平洋戦争が開戦した41年に前年の約2.6倍に急増し100万人を突破。翌年には現役兵を上回り、陸軍兵力の過半を占めるようになった。文系学生らへの徴兵猶予も43年に解除され、翌年には現役兵も約1.5倍に急増している。 戦陣訓…降伏が許されなかった日本兵 軍人・軍属戦没者が230万人もの膨大な数に達した一因には、日本軍は降伏を認められないものとみなしていたことが挙げられる。 国際的には1929年のジュネーブ条約で、捕虜の権利は保障されていた。しかし、「非国民」とされることを恐れた皇軍兵士たちは絶望的な戦況下、最後には玉砕という名の全滅を選択したケースが多かった。 「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」。その一節で有名な「戦陣訓」が、全軍に示されたのは41年1月8日だった。兵士を奮起させ、戦場に向かわせることが目的だったと解釈することもできるが、兵士個人にとっては捕虜となることは恥辱とされ、残された家族が迫害される恐れがあったという。 公式には初の「玉砕」であるアッツ島の戦いで、日本軍守備隊は43年5月29日に最後の電報を打電した。「敵ニ最後ノ鉄槌(てっつい)」を下すとした上で、「生キテ捕虜ノ辱シメヲ受ケサル様覚悟セシメタリ」と明記。野戦病院の傷病者は自ら、または軍医による「処理」をし、軍属には武器を取らせ、攻撃隊の後方を前進させるとした。 41年1月、この戦陣訓を示達したのは当時の陸軍大臣、東条英機だった。東条は開戦直前には内閣首班となり、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)ではA級戦犯に指名。占領軍が逮捕に訪れた際に自殺を図ったが、失敗している。 陸軍の特攻作戦を指揮した冨永恭次もまた、戦争を生き抜いた。「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保阪正康著)によると、冨永は出撃前の訓示で「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と豪語していたという。 戦略爆撃、民間人に大きな犠牲 第一次世界大戦時に本格投入された航空機の技術的進歩で、戦闘地域と後方地域の区別は曖昧になった。第二次世界大戦前の1937年に、スペイン内戦で反乱軍を支援したナチス・ドイツの義勇部隊「コンドル軍団」がバスク地方の小都市ゲルニカを空爆したことは、ピカソの絵画「ゲルニカ」の題材になったことで有名。都市を破壊し、敵国民の士気喪失を狙った「戦略爆撃」がエスカレートしていく。 第二次世界大戦では戦略爆撃の標的として、日本軍が重慶(中国)、独軍がロンドン、米英軍がドレスデン(ドイツ)などの都市を破壊。戦略用の兵器も4発重爆撃機、地対地ミサイルなどが開発され、最後は究極の大量破壊兵器・原子爆弾にたどり着くことになる。 日本本土では米軍の空襲で、東京、広島、長崎など主な都市が焦土と化した。 厚生労働省などによると、日中戦争を含めた太平洋戦争での民間人の戦没者数は約80万人。うち国内で亡くなった約50万人の半数以上が空襲による犠牲者とみられる。 一方、地上戦が繰り広げられた南洋諸島、旧満州、沖縄などでは、連合国軍の攻撃、補給線途絶による飢餓や病気、敗走のなかでの集団自決などで、民間人にも数多くの犠牲者が出た。 兵士を「駒」扱い。愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー 2014年8月15日 毎日新聞 「戦没者230万人」という数字を、私たちはどのように読み解けばいいのだろうか。昭和史の著作が多い「歴史探偵」こと作家の半藤一利さん(84)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】 ◇ 戦前の日本は近代国家の体をなしていなかった。「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。厚生省(当時)は戦後、戦域別で戦没者数を算出しましたが、そこまで。死因までは分類できていない。230万人というざっくりとした数字も、私は過小評価ではないかと疑っていますよ。 詳細が分からないということは道義的にはもちろん、軍事的にも非常に問題があります。前線に送り込んだ部隊のうち、戦闘に耐えうる兵士は何人なのか。あるいは戦傷、戦病者は何人いるのか。正確な戦力を測れずして、作戦を立てることはできません。そもそも、前線に送らなければならない武器弾薬、糧食、医薬品などを算出するためにも、絶対に必要です。 それができていなかったのではないか。 兵站(へいたん)を軽視した、あるいは無視したのが日本軍でした。「輜重(しちょう)が兵隊ならば チョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ言があります。輜重とは兵站部門のことです。 そもそも、陸軍参謀本部や海軍軍令部のエリート将校にとって、兵卒はしょせん、1銭5厘(当時のはがき代)で集められる存在。作戦時には3日間分のコメ6合など25キロの荷物を背負わせ、前線へとおっぽり出した。食糧がなくなれば、現地調達しろと。降伏はありえないのだから、負け戦になれば玉砕しかありえません。敗残兵の消息など気にもとめなかった。 これに比べ、米国の手厚さは語るまでもないでしょう。あるエピソードがあります。ブッシュ元大統領(第41代ジョージ・H・W・ブッシュ、第43代大統領の父)は戦時中に小笠原諸島の父島沖で撃墜されました。元大統領は救助されましたが、この時に捕虜になった同僚がいました。戦後、米軍の調査団が父島を訪れ、彼が埋葬された墓地を掘り返したんです。すると、遺骨の首は切断されており、日本軍に処刑されたことが明らかになった。一兵士に対するまで、その死をないがしろにしない。国家としての責任を果たしているんですね。 日本軍は自己の実力を顧みず、攻勢の限界線をはるかに越えました。餓死者が続出するのは当然のことです。私は戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。このような軍隊は古今東西にありません。人間をまるで、将棋の駒のように扱っている。 海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍将兵は18万人にも上ると見積もっています。これも補給軽視、つまりは人命軽視の表れです。開明的とされている海軍ですが、陸軍とそんなに違いはありません。レイテ沖海戦で、小沢艦隊はおとりになりました。基幹の空母4隻に搭載した航空機は定数をはるかに下回る100機余りしかなかったのに、整備員は必要もないのに定数を乗せた。帳簿上の員数合わせだけを気にする官僚主義としかいいようがない。 軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやりました。特攻作戦も同様です。特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した。「日本的美学」などと言われるが、とんでもない。立派な作戦であるような顔をして、机の上で「今日は何機出撃」などと記していた参謀らを許すべからずです。 集団的自衛権の行使について、容認する声があります。何を言ってんだ、と思いますよ。戦後の日本は平和だった。その権利を行使しなかったため、何か問題があったのでしょうか。 太平洋戦争を巡り、これまで各国の将軍、提督たちを数多くインタビューしてきました。みんな、偉い人は生きているんですよ。戦争とはそういうものです。「戦没者230万人」の犠牲のうえに日本は成り立っています。その数が示していることは何か、考えてみるべきじゃないでしょうか。 ―――――――――――――――――――――――――――――― はんどう・かずとし 1930年、東京生まれ。東京大文学部卒。「文芸春秋」編集長などを経て作家に。「昭和史」で毎日出版文化賞特別賞。近著は「日露戦争史」1〜3巻