「お迎え」の対応についての考察 2020-10-8 (はんぺん)
97歳の母は、今、ホームや病院のお世話になっている。この1年は、介護でバタバタしたが、9月からは(介護のプロ)に、お願いすることにした。ここ2~3年、(旅行中に、母に万一のことがあったら、どうしようか?)と悩まされ続けてきた。海外では、(知らせ)を受けても、どう考えても、葬儀に間に合うとは、考えられないからだ。 それを考慮して、計画していた旅行を中止することは無かった。結局、何も無かったのだが・・・これは、賢明な判断だったと、今でも思っている。 (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――― 以前、書き記した一文だ。どうだろうか? 「お迎え」の対応についての考察 2018-3-21 帰らないという選択肢も・・・・ 亡くなる前に帰るのと、亡くなった後に帰るのとでは違うかもしれないが、亡くなった後で何日後に帰るかは大差はない。 旅行では、事前にこの事は織り込み済みだったハズ・・・・ 帰国したら、きちんとお別れと感謝の気持ちがあれば、それでいいと思う。 半年以上前から計画した個人の長期旅行は、もう20回以上実行してきたが、これまでに、かかった費用は、1,000万を軽く超えているだろう。(旅行中の中止)は、考えられないと常々考えてきた。高齢の母は、95歳を超えており、「お迎え」がいつあっても、おかしくない・・・という状況の中で、旅行を、(その「お迎え」が終わるのを待って・・・)となると、いつまでも、身動きが取れない・・・ということになる。(我々も、高齢に入りつつある。) 従って・・・ ① 「お迎え」が、出発5~7日前であれば、葬儀を済ませて、出発できる。 ② 「お迎えが、2日前~当日の場合が・・・悩ましい。出発を1~2日遅らせることは、考えられる・・・・様々な手続きは、大変だ・・・フライト、レンタカー、ホテル・・・の変更手続きの事 ③ 「旅行中に「お迎え」があった場合、帰国しないで旅行を続ける。 葬儀は、残りの親族に、お願いすることになる。 帰国したら、きちんとお別れと感謝の気持ちを、墓前に伝えるつもり。 パックツアーでない個人旅行の場合、何をするにしても、言語のハンデも含めて、おそろしく手間と時間がかかり、すぐの帰国は、不可能と判断するしかない。英国の田舎を回っているときに、知らせを受けても・・・そこからでは、何もできない・・・と言うこと。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― こういう意見がある・・・ 「とても常識があるとは思えません・・・ 普通はキャンセル料が多額にかかったとしても旅行をとりやめませんか? 親族が欠けていたら、親戚一同にどう思われるからは容易に想像できます。」 ・・・親戚同士の関係が希薄なものになってきた昨今だ。・・・・葬儀は、世間体で決まるのか? 通夜、告別式に家族が欠席することは、許されない??? そんな「常識」は、どんどん変化していく。 「旅行は、また行けるけど、お葬式は、2度無いから・・・」また行けるかどうか?どうしてわかるのか? その機会を逃しては、2度と行けないかもしれないっていうことも・・・こんな無責任な主張は、論外だろう。 学生時代、70年安保闘争の中で、(形式ばった成人式)を拒否した昔を思い出す。全共闘のように「体制化した成人式粉砕」とまでは、行かなかったが、当時も今も、僕は「成人式」は、まったく評価していない。人生におけるひとつの区切りは、社会に言われるのでなく、自身の問題だから。 時代の移り変わりとともに、葬儀の形態も どんどん変わる・・・それが、自然だ。墓地についての考え方も同じ。無縁墓が、どんどん増えていく中で、価値観の大きな転換は、避けられない。僕は、「墓」を、まったく評価していない。(親の希望があれば、しばらくは「墓守り」は、するつもりだが) 数年前に、葬儀の形態を、母自身が変更した。なぜか? 高齢化に伴い、母の知人友人の大半が鬼籍に入ったか、身体不調で、「参列」の可能性が無くなり、(普通の)葬儀を行っても、誰も来れないことが分かったから・・・結局、母自身が、「家族葬」を決定、誰も呼ばないことになったのだ。 「墓」や「葬儀」についての考え方は、今後、どんどん変わっていく。その時、おそらく、皆が考えることは、亡くなった故人のことよりも、(生きている残された者たち)の幸せのことだろう。 結婚式は、派手になっていく一方、地味婚も増えている。 結婚式には、お金をかけない・・・もし、いくらかのお金があっても、結婚後の生活に備えて取っておく・・・というのが、堅実な考え方だと思う。 これからは、他人の目を気にしながらの生き方は、廃れていくべきだろう。 95歳の母の「お迎え」が、僕の旅行中に、あったとして、葬儀に間に合わない!!そんな緊急帰国に、母は喜んでくれるだろうか? と考える。 僕が、母の立場だったら、(「突然のお迎え」で 子ども夫婦の予定を狂わすほうが 悲しい。気にしなくていいから、しっかり楽しんできて・・・)と言いたい。 ぼくは、帰国してから、きちんとお別れと感謝の気持ちを、墓前に伝えることで、十分だろう。カタチだけの帰国(時間的に参列は叶わない)は、僕は評価しない。・・・要は、「こころ」の問題だということだろう。 よく、親の「死に目」に会えずに・・・と言う言葉が、ドラマなどで飛び交っているが、遺された家族の「こころ」の問題とすり替えているように思う。 「死に目」に会えるのは、幸運?な人々の事だろう。平和な時代のことだ。先の大戦では、多くの兵隊が南方で、(戦死ではなく)餓死したものだが、その結果、内地では「死に目」に会えない遺族が莫大な数、いたということだ。 「死に目」に会うことが、そんなに重要なのか?これは、いつも僕が考えていることだ。(この歳になると「死と生」について、やたらと考えるようになった) ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 観光旅行に行ったという事で、葬儀に参列しなければ、社会的信用を疑われること間違いなしです・・・観念論そのものだ。そんなことが「常識」で、「社会的信用」を得られるのだろうか? こちらのほうが、おかしいと思う。 僕は、40年近く前、0歳~2歳の2人の子供たちを、妻の実家に預けて、3週間の欧州旅行に、何度か出かけている。その時、職場で長期休暇を取ったときに、ある同僚の女性から、「よく預けられるね。かわいそうに・・」と言われた。世間の「常識」とは、せいぜい、この程度のモノだ。 3週間、おばあちゃんの手で大切に育てられて、何の問題も無かったし、かえって、おばあちゃんと孫の結びつきが強められたことに・・・後になって感心したものだ。 (幼児は、両親の下で育てられるべきだ)という、誰が(社会の一部が?)でっち上げた「常識」は、間違っているし、ぶち壊されるべきだろう。 多くの放棄された乳幼児たちは、乳幼児施設などの福祉施設で、大切に育てられている。 反対に、両親の手による「虐待」が、報道されているし、何人かの赤ちゃんや幼児が両親の手で、殺されているではないか! (必ず「親の死に目」に会わなければならない・・・)という「常識」も同じ。 「こころ」の問題を、世間一般の「常識」とすり替えることは、社会の歪みの証明でもある。様々な事情を斟酌せず、決めつけと社会的強制観念で、縛り付ける時代では無い。 ・・・・・(未完成)