出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行 戦没者の60%強140万人は餓死であった 第1章 餓死の実態 8.戦没軍人の死因 ②餓死者の割合 軍人の戦没者230万人のうち、戦死、病死などの死因別はどうなっているかについては、 公式の統計はまったくない。陸上自衛隊衛生学校が編纂した『大東亜戦争陸軍衛生史』は、公刊の衛生史に当たると いえるものだが、その中では次のようにいっている。 今次大東亜戦争においては、敗戦により、特に統計資料は いっさい焼却又は破棄せられ、まとまったものは皆無の状況である。 従って、全戦争期間を通じ、戦傷戦病はどの位あったかと いうことは、全く推定するよしもないのである。 「推定するよしもない」としているこの衛生史は、 戦死と戦病死の割合については、ごく初期の対南方進攻作戦のものをあげるだけで、その後の状況については沈黙している。 とくに、後半期の南方の餓死者続出の惨状や、中国における戦争栄養失調症の多発などについては、まったく触れるところがないのである。これは、病死が多数発生するのは軍医として恥だという感覚からかも知れない。しかし戦争の衛生史としては、もっとも重大な問題を欠落させているというほかはない。 くりかえしていうが、日本軍人の戦没者230万人の内訳は、戦死よりもはるかに病死が多いのである。これは衛生、給養上の大問題であり、戦争衛生史ならば第一にとり上げて、その原因を分析すべき事態なのである。 それでは、一体、餓死者の割合はどの位だったのだろうか。 今までみてみた各戦場別に、その割合を推定してみよう。そのさいの、各地域別の基礎数字は、厚生省援護局の1964年作成のものを使うことにする。実数はこれよりは いくらかずつ多いはずである。 ①「第1章1 ガダルカナル島の戦い」でとり上げたのは、ソロモン群島のガダルカナル島とブーゲンビル島、それと ビスマルク諸島の主島ニューブリテン島のラバウルの諸部隊である。 厚生省の統計ではソロモン群島の戦没者 8万8,200人、ビスマルク諸島は3万500人、 計11万8,700人となっている。 ガダルカナル島の場合、 方面軍司令官は、戦没者2万人、戦死5,000人、 餓死1万5,000人と述べている。ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の戦没者約2万人は、ほとんど餓死であったと推察される。 そのほかの ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなどの中部ソロモンの諸島の場合も、ほぼ同じような比率であったろう。 したがって、ソロモン群島の戦没者の4分の3に当たる6万6,000人が餓死したと考えられる。ラバウルの場合、ほとんど戦死はなく、栄養失調と薬品不足のためのマラリアによる病死であるから、ビスマルク諸島の3万500人の 戦没者の9割、2万7,500人は広義の餓死に数えてよかろう。 したがって、この方面の餓死者は9万3,500人を下らない数に上るであろう。 ②「2ポートモレスビー攻略戦」と「3ニューギニアの第18軍」でとり上げたのは、いずれも東部ニューギニアの戦場である。 厚生省の調査では東部ニューギニアの戦没者は12万7,600人となっている。 各部隊の報告や回想では、いずれも戦没者の9割以上が餓死だったとしている。仮に9割として計算すると、実に11万4,840人が餓死したことになる。 この多くの若い生命が、密林の中で万斛(ばんこく)の涙をのんで倒れていったのである。 ③「4インパール作戦」のインパールはインド領だが、 作戦を担当したのはビルマ方面軍であり、ビルマ戦の一部といえる。 厚生省の調査では、ビルマ(含インド)の戦没者は16万4,500人となっている。 これは4節であげた陸軍のみの戦没者18万5,149人と異なっており、航空部隊、海軍を加えれば、さらに数が増えるはずである。そこで述べたように、この78%、14万5,000人か、それ以上が病死者、すなわち餓死者で あったと推定される。 ④「5孤島の置きざり部隊」では中部太平洋の島々とり上げている。 厚生省調査では、中部太平洋の戦没者24万7,200人となっているが、この中には、上陸した米軍と戦って玉砕したマキン、タラワ、クェゼリン、ルオット、ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、ペリリュー、アンガウルなどの諸島が含まれている。 玉砕した島以外の各島は、米軍にとって不必要なために無視され、戦線の背後に取り残された。その中では、比較的島の面積が広く、ある程度の農耕地もあり、 現地自活が可能だったポナペ、モートロック、ロタ、トラック、 玉砕した2島以外のパラオ地区、ヤップ地区の島の守備隊は、とにかくにも敗戦時まで生き延びることができた。 しかし、いっさいの補給が絶たれ、自給の手段もなく、餓死を待つばかりとなった島も多い。 45年4月14日の海軍軍令部調によると、この時点で餓死を待つばかりだった島は、ウォッゼ、マロエラップ、ミレ、ヤルート、ナウル、オーシャン、クサイ、エンダービ、バカン、メレヨン、ウエーク、南鳥島で、なお3万6470人が生き残っていた。 その人々は、地獄の苦しみを味わった後に、6~7割が最後を遂げることになるのである。 全体として、この地域の戦死、病死の割合は半々とみてよいだろう。すなわち、12万3,500人が病死、餓死していたといえる。 ⑤戦場別でみれば、もつとも多い50万人の戦没者を出したのがフィリピンである。「6フィリピン戦での大量餓死」でも述べたように、その8割までが餓死だったとみてよいだろう。 決戦場とされたレイテ島で戦った部隊でさえ、各隊の報告によれば、その半数は餓死だったのだから、そのほかの、ルソンやミンダナオで持久戦を戦った大部分の部隊は、住民がすべて敵の中で、飢えとの戦いを強いられた。 50万人の中の、40万人が餓死者だったとみることができよう。 ⑥中国本土。厚生省の分類で中国本土とされているのは、日中戦争開始いらいの中国戦線での戦没者で、フィリピンに次ぐ大人数の45万5,700人となっている。 37年の上海の戦いや、38年の漢口攻略戦などでは相当数の戦死者を出したが、全体としてみれば、戦線の広がりの割には戦死はそれほど多くはない。 「7 中国戦線の栄養失調症」で述べたように、栄養失調に起因する、マラリア、赤痢、脚気などによる病死が、死因の3~4割を占めていた。 そして、もっとも多くの死者を出した44年からの大陸打通作戦では、過半数が病死となっている。全体としては、戦死と病死の比率は、ほぼ半々と考えられる。 すなわち、中国戦場では22万7,800人が、栄養失調を原因とする病死であろう。 ⑦その他の地域の中で、沖縄の8万9,400人と小笠原諸島(硫黄島を含む)の1万5,700人は、玉砕したので、ほとんどが戦死である。 次に、ソ連、旧満州、樺太千島は、降伏前後のソ連軍との交戦で大きな損害を出しているので、その死因の多くは戦死で、病死はとくに降伏後に多く、2割の計2万1,000人と見積もることにする。 さらに、モルッカ・小スンダ(含西ニューギニア)とされている 地域も、ビアク島をはじめ玉砕した島が含まれている。 戦闘によるのではなく補給の欠乏で戦力を失った部隊も多い。 この地域の病死者は全体の5割、2万8,700人と推定する。 それ以外の、日本本土、朝鮮、台湾、南方では仏領インドシナ、 タイ、マレー・シンガポール、ボルネオ・スマトラ、 ジャワ・セレベスの諸地域でも、合計で23万3,500人の 戦没者を出している。 これらの地域でも、戦争末期には栄養失調が広がっており、 とくに、降伏して捕虜になってから給養不足に陥った地域もあった。 この戦没者はほとんどが病死であるが、その半分は栄養失調に 基づくものと推定してよいだろう。すなわち、11万6,700人が、 広い意味での餓死である。 今までに、各地域別に推計した、病死者、戦地栄養失調症による 広い意味での餓死者は、合計で127万6240人に達し、 全体の戦没者212万1,000人の60%強という割合になる。 これを77年以降の戦没軍人軍属212人万という総数に たいして換算すると、そのうちの140万人前後が、 戦病死者、すなわち、そのほとんどが餓死者ということになる。