さらば、希望と悲惨の大地満州 日本への帰還 弁護士 藤田勝春
さらば、希望と悲惨の大地満州 日本への帰還 弁護士 藤田勝春敗戦6日前のソ連軍の参戦により死が日常になった ■「人間の盾」と「集団自決」 1945年(昭和20年)8月9日早朝に、多数の飛行機の爆音で目を覚ました。ソ連軍が満州に侵攻してきた。ヤルタ会談でのスターリン、ルーズベルト、チャーチルとの約束であったが、日本は全く知らなかった。日本敗戦の6日前であった。ソ連軍の記録によると、満州とソ連との数千キロにわたる国境の要所に、戦車5,250台、飛行機5,741機が配備され、戦闘員は175万人におよんだ。満州里の街は、数百台の戦車と数千人の戦闘員に包囲され、抵抗すれば皆殺しとの警告を受けた。 日本人は数グループに集まったが、集団自決が多発した。私のいたグループの長老は、絶望して自決を主張する婦人たちを励まし「生きられるだけ生きろ」と皆を説得して集団自決を思いとどまらせた。 当時、ソ連軍は、銃弾が飛び交う最前線に突入する兵隊を、「人間の盾」と称して、ソ連の刑務所の囚人やラーゲリ(強制収容所)の囚人たちを総動員した。人間の盾の特権として暴行と略奪は自由との噂が立った。 ソ連兵の暴行、略奪は半端ではなかった。女性は坊主頭にして釜の炭を塗って男を装ったが、そんなことで済むはずもなく徹底していた。そんな地獄の状況を見て、集団自決が続いたのも無理はなかった。 ■一発の銃声が日中戦争の始まり 私の父は非戦闘員であったが現地召集され1発の鉄砲も撃つことなくソ連軍の捕虜になり、他の現地召集の兵隊と共にシベリヤ鉄道の無蓋車に乗せられ、どこかに連れて行かれた。 もっとも悲惨であったのは、満州の奥地に入植した180万人の満蒙開拓団であった。男性は兵役にとられ、当時、満州を防衛していた関東軍は、敗戦の続く南方の戦場に移動させられ、軍隊はないに等しかった。 老人、婦人、子供らは集団となり日本への港である葫蘆島(ころとう)を目指し南下していった。途中に満人の男らが棒や斧をもって待ち伏せ、みな殺しにして身ぐるみ奪う事件が多発した。いわゆる満蒙開拓団の悲劇である。惨殺された者は8万人とも言われるが実態は分かっていない。 戦後、左派知識人は、日本帝国の軍隊がいかに中国の民衆を略奪し、暴行し、虐殺したかを熱心に主張し、日本についても米国の支配を脱して、中国と同じような社会主義社会を作ろうとした。その際に、中国民衆が日本人を虐殺した事実があると主張しようものなら、保守反動、右翼と罵倒された。私のように引揚げを体験した人間が、細々と事実を語り継ぐしかない。 いまや、左派知識人も年老いた。若い人は戦争に興味を示さない。現在の中国の目まぐるしい動きに言葉もない。しかし、たった67年前には日本に戦争があり、軍人280万人、市民80万人が死亡し、東京、広島、長崎、宇都宮の他、多くの地域で住民が焼き殺された。 87年前、満州の蘆溝𣘺での1発の銃声が日中戦争の始まりであったが、みんなが平和を叫び、不拡大方針を論じていた。しかし、戦争は15年も続いた。■船底の記憶 1945年(昭和20年)8月15日、日本が敗戦。満州にいた日本人は奥地から日本に引き上げるために、葫蘆島(ころとう)に命からがら結集した。昭和20年から昭和21年の冬は過酷な寒さで、集まった20万人から30万人の引揚者は、一隻も引揚船が来ない中で過ごすことになった。 多くの人が凍死、餓死、病死し、その為にここでも満州残留孤児が発生した。当時の朝鮮半島は38度線を境に北は北朝鮮やソ連軍が占拠し、南は韓国、米国が占拠していた。作家の故新田次郎の妻であり数学者藤原正彦の母である藤原ていは、3人の子供を連れ38度線を突破し、南から日本に引き上げた。その体験記「流れる星は生きている」(中公文庫)はベストセラーになり、引き揚げの過酷さが綴られている。 葫蘆島では日本からの引揚船が来ないことから、当時の日本人会の役員らが北朝鮮から日本に密航し日本政府に引揚船の手配を直訴したが、当時の政府は、日本は無条件降伏したので船は手配できない、連合軍総司令官のマッカーサー元帥にお願いに行くようにとの回答であった。マッカーサー元帥は、満州で毛沢東軍と戦うために蒋介石の国民党軍を葫蘆島に運んでいるので、空いた貨物船に引揚者を乗せ日本に運搬することを承諾した。私にも古い貨物船の船底にゴザを引いて寝ていた記憶がある。そこで出された食事はオジヤであったが、1年以上も食べていない米にありつき、こんな美味いものがあったのかとの記憶は今でも鮮明である。 ■はじめて見る美しい国 我々の船は佐世保港に上陸した。引揚船の出口には厚生省の医師が待機していて、ソ連兵により妊娠させられた女性を堕胎棟に連れて行き、本人の承諾もなく強制的に、麻酔薬も使用せず堕胎手術を行っていた事、多くの堕胎した胎児を穴に埋めたが犬が掘り出すので、硬い木の箱に入れて埋葬した事など、当時の看護婦が体験記を残している。当時の堕胎棟の跡には、看護婦が建てた水子地蔵が今でも祭ってある。戦争と性の問題は古くて新しい問題である。従軍慰安婦の問題は今でも議論されている。 私が母親と共に日本に帰還できたのは、母親が健康体であり、私も健康であったことと、そして一かけらの幸運があったからであろう。私にとって初めて見る日本は、子供心にも木と緑があふれる美しい国であった。佐世保市から引き揚げ用の列車に乗って日本を縦断し、父親の故郷である宇都宮市にたどりついた。宇都宮市は、1945年7月12日の深夜の大空襲で宇都宮駅から傳馬町まで全て焼き払われ、焼け跡では市民がバラックを建て懸命に生きるために働いていた。 私が所属しているクループである「宇都宮平和祈念館を作る会」は、宇都宮空襲展を毎年8月上旬の3日間、宇都宮中央生涯学習センターで開催し28年になる。宇都宮市の空襲の実態を知ることにより戦争を知ってもらいたいとの希望で続けている。 ---------------------------------------------------------------弁護士 藤田勝春 1942年(昭和17年)満州国生まれ。1946年(昭和21年)3月満州から引き揚げ。1973年(昭和48年)弁護士開業。