ソ連の大粛清・・・・ウィキペディアより
組織対個人は、永遠の課題なのか? 民主集中制の原則が、考えられたのは、圧制下での階級闘争という、「戦時中」のことだった?いわば、緊急事態の中で。 徹底した論議を経たのち、少数は、多数に従う・・・これが、平和時(?)にも適用された。留保の余地は、考慮されなかった。 その結果、少しでも意見が違えば、敵対し、分裂に至る。分裂は、総体としての力量の低下を招く。 わかりきったことではあるが・・・民主主義の仮面を被って(団結)を訴えながらも、サヨクの歴史は、(分裂の歴史)であった。 それだけではない。民主集中制という美名のもと、いったい何人の人間が、虐殺、殺戮、銃殺、抹殺されなければならなかったのか!・・・おぞましい歴史を考えると、気持ちが萎えてくる。これが言えるのも、インターネット検索で得られた豊富な情報のおかげだ。 昔は、情報が、あまりにも少なかった。限られた情報が、一方的に流され、信じ込まされてきた。そうだ、言ってみれば、ダマされ続けてきたわけだから・・・ぼくにとっては、悔しい思いだ。 自分の人生は、いったい、何だったんだろう・・・という反省・自己批判から、出発しなければならない。 昔、ぼくたちの平和運動は、イコール反戦運動、たとえば、第2次大戦批判、ベトナム戦争批判というかたち、「戦争に反対」という認識だった。太平洋戦争の日本人の死者は、約300万人。東アジア全域での、戦争による死者は、およそ2,000万人と言われている。朝鮮戦争では、一般市民も含めて約650万人が、ベトナム戦争では、800万人以上が、犠牲になっているといわれている。(戦争による国別犠牲者数(Adobe PDF) - htmlで見る) しかし、しかしだ。第2次世界大戦でのソ連の死傷者数は、平凡社「世界大百科事典」によると、1,200~1,500万とされているが、戦争よりも「粛清」など共産主義の方が、ソ連の人々に大きな犠牲を生み出したというのが、下記の資料だ。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ――――――――――――――――――――――― 大粛清・・・・ウィキペディアより 概説 ソビエト連邦共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧として悪名高い出来事である。 ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、最盛期であった1937年から1938年までに、134万4923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1692人が死刑判決を受け、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送られた[6]。 ただしこの人数は反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導層はごく一部を除いて絶滅させられた。とくに、地区委員会、州委員会、共和国委員会は、丸ごと消滅した。 1934年の第17回党大会の1966人の代議員中、1108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった。1934年の中央委員会メンバー(候補含む)139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。 1940年にトロツキーがメキシコで殺された後は、レーニン時代の高級指導部で生き残っているのはスターリンだけであった。また大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議員中わずか3%が次の大会(1939年)に出席しただけであった。1939年の党の正式メンバーのうち、70パーセントは1929年以降の入党――つまりスターリン期の入党――であり、1917年以前からの党員は3%に過ぎなかった。 党の討論機関たる大会と中央委員会は――終には政治局さえも――1939年以後、スターリンが1953年に死ぬまでめったに開かれなくなった[7]。 党指導者を目指してスターリンに対抗していた者は全て見せしめ裁判(モスクワ裁判)で笑いものにされ死刑の宣告を受けた。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、トムスキー、ルイコフ、ピャタコフ、ラデックはイギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ポーランド、日本のスパイもしくは反政府主義者、あるいは破壊活動家という理由で、さらし者にされた上で殺された[8]。 赤軍も5人の元帥の内3人、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人、准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八九が銃殺である[9]。 ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者であった。1939年冬には600人のドイツ人がNKVDの手でゲシュタポに引き渡された。1919年のハンガリー革命の主導者クン・ベーラおよび1919年の革命政府人民委員12人が逮捕され処刑された。イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソビエトに逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内、わずかな例外を除く全員が銃殺された[9]。 コミンテルンは1942年に正式に解体された。しかし、そのスタッフと幹部は、ロシア人であるかによらず、ほぼ全員が1939年の夏までに粛清された[10]。 なお、モスクワ裁判などのような政界、軍部の大物を除いては、処刑されたという事実さえ犠牲者の家族には伝えられなかったことが多く、家族には「通信の権利のない10年の懲役刑」「獄中で病死」などの虚偽の通達がなされることが多かった。中には、死亡時の詳細が現在も明らかになっていないものも多い。 大粛清の始まり ウラジーミル・レーニンの死後、党内における政争に勝利し権力を掌握したスターリンであったが、党の中には古参党員を中心にスターリンの台頭に危機を覚える者が多数存在した。そんな中、1934年12月に共産党幹部セルゲイ・キーロフが、レニングラード共産党支部においてレオニード・ニコラエフという青年に暗殺されるという事件がおこる。この事件については、当時キーロフの存在に脅威を感じるようになっていたスターリンが部下のゲンリフ・ヤゴーダに命じ暗殺させたという説が有力視されているが、真相は不明である。 スターリンは、犯行は「レニングラード・テロリストセンター」と呼ばれるトロツキー一派の仕業であるというでっちあげの公式声明を行い、その逮捕を口実に、自らの反対派抹殺に乗り出すこととなった。 スターリンは1937年3月の共産党中央委員会総会において、キーロフ事件以後の「教訓」として「階級闘争が前進するほどに、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつり、ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段にますますかじりつくであろう」[11]などとする階級闘争激化論を定式化し、大粛清を開始した。 まずレニングラードの共産党関係者が5000人ほど逮捕され、強制収容所へ連行された。さらにかつて反トロツキーでスターリンと手を組んでいた大物たち、カーメネフとジノヴィエフらも「合同本部陰謀事件」を企んだとして逮捕され、1936年の第一次モスクワ裁判にかけて銃殺刑に処した。先に逮捕されたレニングラード共産党の関係者5000人もこの裁判の後に全員が銃殺刑に処されている。スターリン時代最初の大規模殺戮だった。 しかしこれはまだ序の口で、粛清はこの後さらに過激さを増すことになる。ソ連では1934年7月以来NKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー)が秘密警察としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮をとっていたが、スターリンはその長官ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと考え、1936年9月にはヤゴーダを解任した(ヤゴーダも1937年に逮捕され、1938年3月に銃殺)。 後任のニコライ・エジョフ(彼も後にスターリンの信任を失い、1939年に逮捕され、1940年2月に銃殺)のもとで、粛清の規模は一気に拡大することとなった。 これが、延々と続く・・・後は、ウィキペディアを、観てください。 (はんぺん)