大多羅寄宮跡
おおだらよせみやあと岡山市東区大多羅町(芥子山中腹) ■岡山市教育委員会の案内板より岡山藩主池田光政は、寛文6年(1666)領内の神社の由緒を調べさせ、翌年、産土神601社および由緒ある神社を残し、社や祠10,524社を廃して、71社の寄宮に合祀しました。その後正徳3年(1713)、藩主池田綱正はこの地にあった句句廼馳(ぐぐのち)神社境内を拡張し、66社の寄宮をこの地に移して合祀しました。これが大多羅寄宮です。寄宮には藩から、毎年修理料と御供料が支給されていましたが明治維新後はそれも途絶えたため、明治8年、祭神を布勢神社に合祀、現在は東西9間(約16m)、南北10間(約18m)の境内地と石垣を残すのみとなっています。 子供の頃、毎日必ず見ていた西大寺地域最高峰の芥子山(けしごやま)。頂上にとてつもない磐坐があったことを思い出し、数十年ぶりに登ってみました(現在は車で頂上まで行けます)。磐坐と言っても特に祀られているわけではなく、小さなお不動さんの祠があるだけです。しかし大和や京都の磐坐を訪れているうちに、芥子山の頂上を思い出しました。そして昨年11月に参拝した備前国一宮、石上布都魂神社の磐坐を見たとき「芥子山の頂上はもっとすごかった」という思いがあって1月10日、連休を利用して帰省して芥子山に登ったのです。 あまりの大きさに、カメラに収まりきりませんでした。このような岩場は頂上のみに見られる光景です。ここが大和だったなら、神のよりしろとして祀られ芥子山は三輪山のように信仰の対象になったかも知れません。 西大寺地域最高峰と言っても、芥子山は標高233mの低い山です。しかし山の南側はおよそ5kmに渡って児島湾まで平野が広がっています。備前富士と呼ばれる芥子山は、西大寺地域のどこからでもその姿が見えるのです。と言うことは、ここは西大寺地域を一望できる場所。 頂上の「磐坐」目指して車を走らせていた時、ナビの画面に「大多羅寄宮跡」という表記を見つけました。 前日、神武天皇東征にゆかりある安仁神社(あにじんじゃ)や亀石神社に参拝したあとだったこともあって「宮跡」という文字に興味を引かれました。上記案内板の説明文にあるように、それは天皇の「宮跡」ではなく「寄宮(よせみや)」跡だったのですが・・・。 多くの神社を訪れていますが、「寄宮」というものは知りませんでした。低い山の中腹とは言え、参拝にも神社建立にも不便な場所ですが大多羅寄宮がこの場所に建てられた理由が気になります。 案内板によると、元々ここには句句廼馳神社があったそうですが、その神社がどんな神社だったのかも気になります。肥沃な吉井川の扇状地を見下ろす芥子山、そして頂上の磐坐。何かいわくあり気な雰囲気がします。 この山は備前富士と言われるだけあって南側に広がる平野部からは富士山を上から押しつぶしたような姿をしています。しかし大多羅寄宮跡から見上げる芥子山はなんと、見事な神奈備山の形状に見えるのです。 神社&古代史マニアの妄想が広がったこの大多羅寄宮跡は国指定史跡です。ちなみに神武天皇が吉備国にいたとされるのは「高嶋宮」です。上の画像にも写っていますが、児島湾に高島という島があります。諸説あるようですが、この島が「高嶋宮」の有力地だそうです。 .