二月堂の守り神
ここのところずっと伊勢神宮125社巡りの記事ばかりでしたが、やっと他の神社のお話が出来ます。とは言え、ずっと伊勢一色でしたので新しい話題ではありません。6月に「東大寺の鎮守」をご紹介しましたが、今回はその続きで二月堂の鎮守についてお話させていただきます。 東大寺二月堂と言えば「お水取り」で有名ですね。毎年3月初旬に行われる修二会という法会なのですが、そのクライマックスは12日の「お松明」と「お水取り」で関西に春を告げる炎の祭典として知られています。テレビのニュースや新聞でも報道されているので、関西以外の方もよくご存じなのではないでしょうか。しかし、大きな松明の行列が印象的な「炎の祭典」のイメージなのになぜ、「お水取り」なのか不思議に思いませんか?私は以前、松明の火の粉で火事にならないように「お水取り」をするのだと想像してました。実はこの「お水取り」というのは、修二会のクライマックス中のクライマックスで二月堂御本尊の観音さまにお供えする水を汲むことなのです。そしてこの「お水取り」は、若狭に関係があるのです。私とお付き合いの長い方は「またその話か」と思われるかも知れませんが...。その若狭のお話をする前に、東大寺二月堂の3つの鎮守をご紹介します。 先ずは屋根がある石段を上った所にある遠敷神社(おにゅうじんじゃ)。御祭神は彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)。残念ながら一番肝心な神社の写真を撮るのを忘れてしまいました。この石段の人通りが途切れ、一瞬無人になりました。「チャーーーンス!」と叫びながら駆けだした家内につられてついつい私も撮影に夢中になってしまい、遠敷神社の撮影を忘れてしまったのです。 そして反対側(二月堂の南側)の石段の上にある飯道神社(いいみち)。御祭神は軻具突智神(カグツチノカミ)ほか。 もうひとつは二月堂の下にある興成神社(こうじょう)。御祭神は豊玉媛命(トヨタマヒメノミコト)。 三社ともこの二月堂を建てた実忠和尚の勧請と伝えられています。これら三社のうち飯道神社に祀られている軻具突智神は火の神さまです。おそらくは修二会での「お松明」に関係しているのでしょう。あとの二社は、実は若狭からの勧請だと思われます。遠敷神社の「遠敷」とは、若狭彦神社が鎮座する場所の地名です。御祭神の彦火火出見命も、その若狭彦神社の御祭神なのです。そして興成神社御祭神の豊玉媛命は彦火火出見命の后神、つまり若狭姫神社の御祭神なのです。 ではなぜ、ここ二月堂に若狭の神々なのでしょうか。お水取り」の起こりとして、次のような伝承が残っています。 二月堂完成の法要の際、魚とりに夢中になって遅刻してしまった遠敷明神。その遠敷明神が遅刻のお詫びに二月堂のほとりに清水を涌き出ださせその水を観音さまに奉った。 仏さまにお供えする水を汲む井戸を「閼伽井(あかい)」と言います。上記伝承の「清水」は二月堂下にある閼伽井屋の中に湧き出ています。この閼伽井屋は別名「若狭井」とも呼ばれています(上の写真)。私が今回、石段の撮影に夢中になって遠敷神社の撮影を忘れてしまったのも遠敷明神の悪戯だたのかも知れませんね。東大寺の説明板には「遠敷明神が献じたもの」としか書かれていませんがこの「若狭井」は遠敷の地と地下水脈でつながっているという伝説があります。その遠敷明神とは若狭彦神社の御祭神のことです。現在の若狭彦神社の御祭神に合わせて「彦火火出見命」となっていますが二月堂の「遠敷神社」御祭神は元々は遠敷明神と呼ばれていたのではないでしょうか。 若狭彦神社(福井県小浜市)若狭姫神社(福井県小浜市) 一方、若狭では「お水取り」に先立って、「お水送り」という神事が行われます。この神事がいつから行われているのかは未確認ですが、小浜市の神宮寺を中心に行われるこの神事は現在、世界遺産登録に向けて申請中とのこと。 神宮寺以前は若狭彦神社所管の寺であった神宮寺。二月堂の「若狭井」と地下水脈でつながっているとされるのが小浜市根来にある遠敷川の「鵜の瀬」という場所です。神宮寺境内にある閼伽井戸で汲まれたご香水を鵜の瀬から10日かけて二月堂の若狭井に送ると言われています。 神宮寺・閼伽井戸この神事には参列することも出来ますが、鵜の瀬にある展示室や、若狭彦神社近くにある「森と水のPR館」でもその神事の様子が紹介されています。10年以上前のことですが、鵜の瀬でお話を伺ったボランティアガイドのおじいさんは鵜の瀬から東大寺二月堂との地下水脈の存在を本気で信じていらっしゃったようです。「何を流しても、10日で大和に届くんです」そんなことをおっしゃってました。 鵜の瀬(遠敷川) 若狭と二月堂を「10日で結ぶ地下水脈」の伝説が伝えられているのは若狭だけではないようです。京都市南部にある城南宮という神社の御神水「菊水」はその地下水脈の水が途中で湧き出たものと伝えられているのです。二月堂の修二会「お水取り」にはこうした遠敷明神に関わる伝承があり、その伝承により若狭の神が鎮守として祀られているのでしょう。そしてこうした伝承は、東大寺初代別当や二月堂を造った実忠和尚の出自や経歴に由来するものかも知れません。東大寺開山の良弁僧正は、近江の出身だとか東国の人などの伝承もありますが若狭・根来の出身であるとも伝えられています。根来地区の伝承では、良弁が子供の頃に鷲にさらわれて大和の杉に引っかかっていたのを助けられ大和で僧侶になる修行をしたとのこと。その杉は「良弁杉」と名付けられ、今は新しいものが二月堂下の興成神社の横にあります。先にご紹介した興成神社の写真にもその一部が写っています。またインド出身の実忠和尚も、若狭・神宮寺で一時修行をしていたと伝えられています。良弁僧正、あるいは実忠和尚が仏にお供えする水として若狭の水が相応しいと考えたのかも知れませんね。 ところで、先にその遠敷神社の御祭神を「現在の若狭彦神社の御祭神に合わせて『彦火火出見命』となっていますが」と、書きました。実はこの遠敷神社と興成神社の御祭神が、二月堂創建当時にはどう呼ばれていたのか少し興味があるのです。 鵜の瀬にある白石神社は若狭彦神社の奥宮とも称され遠敷明神降臨の地と言われています。若狭彦神社の御祭神は、元々は遠敷明神あるいは若狭彦大神という土着の神ではなかったのかと考えています。しかし古事記や日本書紀の神話に登場する神に充てなければならなかったいろいろな事情があったのではないでしょうか。山の緑と清らかな水、そして豊かな若狭湾。彦火火出見命(山幸彦・若狭彦神社)、豊玉媛命(若狭姫神社)という御祭神は確かに若狭の地にふさわしい神様だと思います。しかし遠敷明神は「魚とりに夢中になって・・・」との伝承はどうでしょう。神話から察するに、山幸彦は魚釣りなんてこりごりだと思ってるはずなんですが・・・。まぁ、これはどうでもいい私の個人的な疑問です。 こうした御由緒を知ると、東大寺や二月堂の参拝もそして境内にある杉の木や小さな神社や祠の参拝も深みが増しますね。若狭未体験の方は、若狭にも行ってみたくなるのではないでしょうか。 .