笠置にて ヘテロソフィア談義-4
ルリセンチコガネとツチグリ かく語りき 難破船が沈没して大海に投げ出されたワンちゃんと人の前に1枚の板切れが流れてきた。その板切れはこの2つの命がすがると沈み、どちらか一方がつかまった場合にのみかろうじて浮力を保つといったものであった。「さて、あなたならどうする♪♪」。 人間のみの救済を考えるキリスト教徒の場合は、躊躇なくアップアップするワンちゃんを蹴散らして自分が板切れを独占するだろう。そしてその判断に淀みはない。ところが、汎神的なアジアの仏教徒であれば、いずれ自分が板切れを独占するかもしれないにしても激しい葛藤にとらわれるだろう。ワンちゃんにも人にも仏性が宿り基本的には命の重さに上下がないからである。西欧社会には慈善はあっても自己犠牲の観念はない。この多分に図式的な小話は極端だが、しかし、幾分の真実も横たわっている。 ホワイトとカラード 極東の島国に生まれ育った僕は日本人がなぜ黄色人種といわれるのかが分からなかった。それが大学時代にスポーツ交流で日本に来て各地の大学で親善試合をしたロシアと日本の若者たちのグレコローマン競技を見て、ロシアの人は白熱すると文字通り紅潮するが、日本人は黄色を通り越して黄緑色になるのを見て合点したのだ。これが黒人であればもっと白黒の対比はあざやかとなろう。 大航海時代以後、新大陸や熱帯アジアに進出した白色人種にとって有色人種はまさに家畜とみえたであろうことは想像するに難くない。一神教の論理は白黒の対比と同様、人と人でなし、神の子と異教徒という2項対立で明快に識別できたので、アジア、熱帯の優柔不断は未開と映り、<鞭とあめ>で教化の必要ありととらえられたのだ。 しかし、白黒の2項の間には無限の諧調があるというアジア的な発想は、ヨーロッパではゲーテがその機微を理解しえたほとんど唯一の例外的存在であったが、西欧人一般にとって、おそらくポスト植民地時代以後のクレオール化社会に定住することなるまで待たねばならなかった。西欧文明のいきづまりからアジアへ熱い目がそそがれるようになったのは、そもそもアジア的な多神教アニミズムの世界のスローライフがことのほか新鮮に映ったからではないだろうか。 しかし、日本に原子爆弾が2度も投下され、ベトナム戦争ではありとあらゆる化学兵器が大量に投じられ、いまだにその副作用に苦しむ人たちで満ちているのは、その戦地がアメリカ本土よりはるかに隔たった極東アジアの島国や半島であったからだと言う意見もある。それに加えて有色(colored)の肌をもつ者たちの国だったこと。水爆の実験場となった旧日本領(それとてもともとは第一次世界大戦のどさくさに紛れてわが国がドイツを追い出して不戦統治を始めた地であった)パラオやマーシャル諸島にしてもそうだ。戦後まもなく日本は、マグロはえなわ漁船・第5福竜丸の被爆で早々と3度目の被ばく体験国となる。 しかし、世界が驚いたのは、そんな史上最大最多の被爆国が戦後その被害状況が全く手つかずの状態であったにもかかわらず、早々と資源皆無の列島の未来図は核平和利用という名目で秘密裡に、しかし,率先して推進しはじめたことである。ここにいたって、戦後の極東アジアの列島弧・ヤポネシアは世界で最悪の劣等国に自らなりさがってしまった。 核アレルギーを克服したお蔭で、戦後無一物の世界から出発し、うさぎ小屋と揶揄されながらも "JAPAN AS NO.1"の地位を獲得できたなんてことは決して言わせてはならない。 しかし、その深刻な被害は、人間以上に目に見えぬ微細な場所で地球を支えているもの言わぬ微小な生き物にはもっと悲惨で甚大な形で広がっている。 各地でいやと言うほど行われている自然観察会の現場から「生き物はすべて見えないきずなで結ばれている」ことの訴えが何故沸き起こってこないのかが不思議でならない。 僕が「このきのこ食えますか?」の世界に終始する理科環境教育としての生き物観察会に限界を感じ、きのこを通して地球の問題を考える活動へと方向を転じながらも、きのこ食いたいだけの人達とつきあってきたのは庶民の自立に未練があったからだが、「庶民はちっとも背伸びをしないことで庶民なのだ」と思い知ったのが21世紀も10年以上経ったつい最近のことであったのだから、おめでたいにも程があるというものだ。「おもちも入ってべたべたと本当に甘くてすみません」と自戒することしきりである。 僕は、しかし、以上述べたこととは別にしてもこの世界から差別というものは根絶できないと考えてきた。それは、後付けする単なる知識ではどうにもならない、人が人らしく生きようとするプラス思考の中にすでに組み込まれているもので、自らを他と区別するという極めて自然な発想の中に胚胎しているものだからだ。その優劣の基準が西欧には厳とあり、アジアでは明瞭さを欠く。オリンピック競技にしても暴力の代替物としてのスポーツではありえても、「決して勝つ必要 はない。しかし、決して負けない」精神を称揚するものではない。日の丸国旗と君が代国歌に猛反対している人でも、受賞式で国旗掲揚と君が代が流れると意志に反して涙するのは小さい頃から勝ち組・負け組の発想で育ってきたからだ。 マルクス主義から転向したのちの戦後まもなく古寺巡礼の旅をして玉虫の厨子の「捨身飼虎」図を見て感動した亀井勝一郎には、戦前、戦中のますらお振りのいさぎよさはないが、西欧かぶれ、いや宗主国アメリカのプラグマティズム(実利主義)かぶれとなりつつあった日本人や、星条旗を解放軍と勘違いした復古主義的なマルクス主義者にはむしろ新鮮だったのではなかろうか。 西欧と東洋、僕はそんな誰の目から見ても単純明快な二項対立はすでに20世紀克服されていると信じたい者のひとりではあるが、21世紀は冒頭より戦争の世紀の幕開けとなり、世界の警察を自負するブッシュ・ジュニアに始まりピューリタン国家史上はじめてのカラードの大統領・オバマさんでさえ戦火拡大を口にしている。 この地球の生物多様性の真の実現は、微小な生物が鍵をにぎっていること。「生物多様性の謎を探る」というNG誌の小論文に収められた冒頭の生き物曼荼羅のタペストリーを改めてここで紹介したのは、しあわせで快適な生活追及の中で自然に育ってくるほとんど生きる本能に近い差別の根を自分の中でしっかりと見据え、どう対処するかを自分を勘定に入れずに考えていただきたいからだ。 戦後まもなくのフランス実存哲学は現代哲学のもっとも旬の話題をとてもおしゃれに論じて随分と楽しませてくれた。とりわけ、へその緒に由来するヒューマニスム(人間中心主義)に関してもシモーヌ・ド・ボーヴォワールはその著『ピリュウスとシネアス』(邦題 人間について)の中で縦横に論じており、とても胸のすく思いがした。随分昔のことなので再版されているかは疑問だが,新潮文庫に収められているので自分というものを知るためにも是非ひもといてほしいものだ。 また、つい最近教えてもらって読んだ岩波新書1419の『言葉の力学』白井恭弘著は、日常的に用いる言語からとらえたどうしようもない差別意識を究明した好著であるので併せてご一読のほど。 笠置にて(了)