24日の一日一句
神ありや? なし!! 仰ぎ見る楠新樹 外国の人たちにはアジアのそのまた島国の日本人の神についての考えがとりわけ理解できないようでロス・アンジェルスのRyokoさんからもよく佛教や歴史についてたずねられるとメールにありました。そんな日本人こそもっともわからない神さまのことを私は小さい時から考えてきて今は掲句のような思いを抱いております。西欧的な一神教の神はイエズス会のザビエルのわが国へのキリシタン布教の頃から理解された験しがなかったこと。私にとっても究極の神は創造神ではなく自然(じねん=nature)そのものであると思っています。そして困ったときの神だのみと言う場合の神は祖霊であろうかと。私を見舞う克服しがたいような困難や悩みを親身になって一緒になって悩み、慰めてくれるものは親兄弟そしてその昔(かみ)の血族以外にありえないと思うからです。わたしたちアジアの民は、神を絶対無二の存在として創り上げなかったことがもっとも重要な点です。この発想がこれからの世界で人類を一日、一時間、一分、一秒でも先に生きながらえさせてくれる鍵をもっていると考えています。私は宗教よりももっとおおらかな意味で多様性に満ちた世界を多様なまま引受けているきのこを究極の自然のシンボルと考えています。これは「あれかこれか」の判断のみで進化してきたと錯覚する西欧由来の発想をやんわりといなしてくれる唯一のものだとも思っていますので。アジア人のそのまた辺境の島人である私たちは、信仰心は一神教の人たちよりももっともっと寛容な形で持ち合わせているのですが、神は存在するか?と大上段に質問を投げかけられると無いとしかいえない。そんな複雑な思いを一挙に解決してくれるのが新緑の今もっとも目に優しい楠の大樹に真向かったときでした。楠の新樹をみつめていると私のそのような思いがすっと感情移入されるのです。 楠を短詩で樟の漢字を当てる人がいますが、この文字からは樟脳の匂いが強調されすぎていただけませんので通常は楠公さん同様、楠の字を当てるべきだと思います。Ryokoさんいかがでしょうか。神は一つであると教えられて育った人たちに八百万や密教マンダラにみられる多神教の世界はとても理解しにくいものですが、曼荼羅でも大日如来は擦過するダイナミックなセンターとして機能しています。絶対的な存在ではないのですね。これは太極図の結束点の役割を果たしているもので、MOOKきのこの3号の巻頭で少しふれておりますので併せてごらんください。あなたがアメリカへ発つ前ご一緒した折に余興で梅樹のMochalla Huntingをした時の写真が出てきましたので添えておきます。Los Angeles Mycological Societyでの講演がんばってね。