最期の言葉
3月31日に倒れてから、寝たきり状態になり、日々、驚くほどのスピードで衰弱は進んだ。 4月5日、午前中はまだ会話が少しは出来たのが、夕方にはほとんど出来なくなっていた。 それまでは強い痛みを訴えなかった母がその日は、背中、身体全体の痛みを訴えた。苦しそうに身体を動かし、目を大きく見開く母。 午後3時ぐらいだったろうか。私が苦しそうな母に「お母さん大好きだからね、お母さんのこと世界で一番愛してるからね、お母さん私を生んでくれてありがとう、お母さんの子供で生まれて本当に幸せだったお母さんほど私のことを想い愛してくれる人は他にいないよ、お母さんありがとう」と話しかけていると苦しそうな聞き取りにくい声で「ありがとうございました、ようやくわかりました、お世話になりました、ありがとうございました、ありがとうございました」と繰り返した。 その時は、そばにいた妹、叔母と一緒に「お母さんお世話になりました、なんて過去形で言わないでよ」と笑っていたけれどその後は、ほとんど会話が出来なくなっていった。 それが母の私との最後の会話になった・・・ 私は、ずっと母に病状告知をしようか悩み続けた。遠まわしに、病状について伝えようと何度も試み、その度に母に拒絶され、母の想いを傷つけてきた。 母の「ようやくわかりました」という言葉は、その私の想いに気付いてくれたということだろうか。 あれほど、絶対元気になると、決して死について考えようとしなかった母が、あのとき自分の死期を悟ったように感じる。 母の最期の言葉が「ありがとうございました」という言葉だったことは一生忘れない。絶対に忘れない。 でも、私はどうだろうか。あれほど生きると強く信じてきた母を最期の数日は、主治医も看護師も、母は死ぬことを前提に私に話しかけていた。 その時まだ母は治ると信じ、がんばっていると言うのに・・ そして私もまた、私はもう随分前から、母の死を想い、なんとかその時の自分の恐怖を免れようと死に関する本を読み、その時の自分をシュミレーションしていた。母の死という重みを一人では背負いきれず、苦しくて母とそれを共有したいと思ってた。 私は母の生きたいという思いに寄り添いきれなかった。 私は今、母に話しかける。「お母さん私はお母さんに愛されるような人間ではないのです。私はお母さんが死ぬのではないかとずっと思ってた、お母さんがあれほど生きたいと願い続けていたのに私はお母さんと一緒にそう信じきってあげれなかった。いつもいつも怖く、お母さんの死を思わずにいられなかった。 お母さん、ごめんなさいごめんなさい」 愛されていたという想いが強ければ強いほど後悔の想いも強くなる。 こんなにも愛されて、たくさんの愛をくれたお母さん。その愛をもっともっとあなたに返したかったのに少しでも償いをさせて欲しいのに もうあなたはいない。