太平洋戦争、住民を巻き込んだ初めての戦争は…(8/13)
「忘れられた島々」 西太平洋の赤道より北の部分に点在する島々を「ミクロネシア」と呼びます。マーシャル諸島、東カロリン諸島、西カロリン諸島、マリアナ諸島などに600あまりの島々があります。グアム島、サイパン島、トラック島などを含む地域です。 16世紀にスペインがこの地を支配し収奪と暴虐の限りをつくしました、19世紀終わりにはドイツが植民地化しました。1914年の第1次世界大戦勃発では連合国側に立った日本がこれらドイツ領の島々を占領しました。この時の人口は先住島民(チャモロ人、カロカ人など)が約4万3千人、日本人約200人、中国人約50人、西洋人は1,300人程度だったといいます。 1919年、国際連盟はこれらの島々を日本の信託統治地域にしました。太平洋戦争開戦以降アメリカ軍が侵攻してくるまで、これらの島々は日本の統治下にあったのです。これらの島々を日本が30年間にわたって領有していたことはあまり知られていません。「忘れられた島々~「南洋諸島」の現代史」(「南の生命線」と呼ばれた島々で起こった悲劇を描く~井上亮:平凡社新書~2015年8月11日) 2015年4月8日、天皇、皇后両陛下はパラオ共和国を訪問し、9日にペリリュー島で戦没者への追悼の祈りを捧げました。高齢の両陛下の念願だった戦後70年でのパラオへの慰霊の旅。このことでこれらの島々に悲惨な戦争の歴史があったことを知った人も多かったでしょう。 日本の委任統治の初期は経済的開発が中心でした。スペインやドイツの支配と違って日本は地域のインフラ整備と産業開発に努めました。満州における南満州鉄道株式会社(満鉄)と並び称される南洋興発株式会社(南興)は漁業やサトウキビ栽培などを盛んにしました。サトウキビ栽培に習熟している沖縄県からの移民を中心に日本人の移住が進んだのはこの頃からです。 日本が国際連盟を脱退してからは、日本は南洋群島の軍事化を図ります。しかし、洋上決戦を主要作戦とする海軍は、島の防備は重視しませんでした。しかし、1941年12月8日の太平洋戦争開始と共に、南洋群島の防備は「海の生命線」として重要な課題となります。 南の島々を順に攻略する米軍の飛び石作戦が始まります。特に、1944年6月15日から7月9日にわたって行われたサイパン島攻防戦が大きな意味を持ちました。ちなみに、この戦闘での日本守備隊の全滅は「玉砕」という言葉で報道されました。これ以降「玉砕」という新聞見出しは、国のための死を美化し国民を絶望的な戦闘にかきたてるために使われました。 住民を巻き込んだ戦闘は1945年3月26日に始まる沖縄戦が初めてでなく、サイパン島が初めてだったのです。そして、サイパン島陥落で米軍の日本本土空爆が可能になったのです。 サイパン戦の前、島には民間人22,000人(朝鮮人含む)、先住島民4,000人が住んでいました。米軍の来襲前、子どもや女性、高齢者の引き揚げが行われました。しかし、16~60歳の男子は島の防備のため残されました。また、引き揚げ船が米潜水艦の攻撃で危険ににさらされていたことから、島に残ることを選択した家族も多かったのです。 サイパン「玉砕」の時、島の北端にあるマッピ岬から投身自殺する人が約1,000人もいたのです。目撃した米軍はこの地を「バンザイクリフ」と呼びました。 この地は今は観光地となっていますが遺骨の収集もまだ終わっていません。今年4月の両陛下の訪問は、これらの人々への鎮魂の思いを伝えたいという一心からのことでした。 戦後の南洋群島の国々は米軍の管理下に置かれ、軍事・外交面ではアメリカに頼っています。アメリカは今もって島の産業開発を重視せず、補助金名目の金銭支給でこの地を保持していて、このやり方は「動物園政策」とも言われています。 アメリカはこれらの諸島のうちマーシャル諸島共和国のビキニ環礁を原水爆実験地とし、1 946年から1958年にかけ23回の核実験を行います。これらの実験地ではまだ住民の帰還ができない地域があります。 1954年3月26日、焼津港を母港とする第五福竜丸がビキニ環礁での水爆実験で被爆し、通信士の久保山愛吉さんが半年後に死亡しました。日本にとって、ヒロシマ・ナガサキに続く第3の被爆と言われています。 ビキニ環礁は、2010年の第34回世界遺産委員会において、ユネスコの世界遺産リスト(文化遺産)に登録されました。負の遺産として、マーシャル諸島共和国初の世界遺産となったのです。今でも地図で見ると実験で出来た半径2kmに及ぶ穴がはっきりとわかります。 この「忘れられた島々~「南洋群島の現代史」」は、戦後70年のこの年に、もう一度これらの島々の歴史と今を考えるという意味でよくまとめられている本です。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村