バイクソロツーリング~archives series 7(2/28)
中国・四国ツーリング(その1) ここに紹介するツーリング記録は、学生時代にクラスの機関誌「黎明」に投稿したもので、原稿用紙20枚以上の大作である。ここではこれを原文のまま転載した。 写真は、当時趣味でモノクロ写真の自家現像、焼き付けをしていたので、モノクロ写真とカラー写真が混在している。アルバムに貼っている写真をスキャナーでとったが、カラー写真のほうは色落ちがひどかったので、コントラスト、彩度を上げて加工している。これも、デジタル時代の恩恵である。はじめに行き先は山陰、日程は約一週間。それだけでも、もう十分だった。日増しに晩秋のにおいを濃くする秋風にせかれるようにして我が家を出たのは10月12日。細かい計画など一切なしであるが、そのほうが気が楽だ。ただ一つの心配は、空模様のこと。ここ数日続いている好天気がこれからも続いてくれることを祈るだけである。 以下、今度の旅で見たもの感じたものを思いつくまま書いてみた。1972年10月13日(金)~2日目(秋吉台~萩~益田~出雲大社~松江) 萩のユースに泊まる予定だったが満員で断られて、仕方なく一日目は秋吉台ユース泊まりとなった。おかげで、今日は萩から出雲大社を経て松江までのかなりの強行軍となる予定である。「美祢線のSL」(この頃、SLはディーゼル機関車に変わりつつあった、交通面のエネルギー革命である) 7時50分にユースを出発して、カルスト台地を縫ってのびている秋吉台スカイラインを走る。昨日の秋芳洞は修学旅行の高校生が多くて途中で出てきたが、このカルスト台地は雄大でおおらかで気にいった。東西17Km、南北7.5Kmに及ぶ日本最大のカルスト台地は昭和30年、国定公園に指定された。毎年の山焼きによって,常に平原の状態が保たれているという。「秋吉台スカイラインにて」(クルマも少なく適度なワイディング走行が快適だった) 延長10.5kmの秋吉台スカイライン有料道路を走り終わって、今日の第一の目的地萩をめざす。山口県大津郡三隅町で国道191号に入る。路面は良好で交通量も少なく制限速度プラスαで快調に走る。萩市街入口で給油し、国道から左折して萩城に着いたのが9時15分であった。 萩市は人口5万4千人、毛利氏36万5千石の旧城下町である。川が河口付近で松本川と橋本川の二本に分かれていて、その間のデルタの上に現在の萩市街が広がっている。萩城は橋本川の河口、標高143mの指月山の山麓にあったが,明治7年に解体され、今は石垣を残すのみである。まだ朝早いのに、萩名物の貸し自転車に乗った観光客(大半は大学生?)が2.3人のグループであっちにウロウロ、こっちにキョロキョロ。特に女性の2人連れが多い。 ふと思いついて、指月山頂の詰丸跡まで登ってみる。いざ登り始めるとかなりしんどい。小一時間かかって、やっと頂上に着いた。頂上はゆっくり歩いて4,5分で一周してしまうくらいの広さだ。ここには雨水を受けて溜める天水受けや白壁の塀が荒れるままに残っている。萩城跡を訪れてもここまで登る人はほとんどいない。「萩城、指月山頂にて」(詰丸というからには、昔、見張りの武士たちが詰めていたのだろう) 確かに見張りには恰好の場所だ。ここからは、松本川と橋本川にはさまれた萩の市街と、おだやかに広がる日本海が眺められる。この指月山全体は全く人間の手が加えられず、自然のままに保たれているそうである。山の樹木は全て原生林で、所々に枯れた巨木が山頂への小道をさえぎっている。しかし、木々を切り払って鉄筋コンクリートの模造品の天守閣を建てるより数段よろしい。この指月山頂は気に入ったがゆっくりもできない。駆け足で山を降り、10時25分に萩城跡を発ち、市街に入る。 萩市内には所々に昔の城下町の面影が残っている。これは、萩が周防・長門36万5千石の毛利氏城下として江戸時代二世紀半もの間繁栄しながらも、明治に入ってこの地方の行政の中心が山口に移り、萩の旧城下が昔の姿をそのままとどめたかたちで発展から取り残されたことによる。萩市の見どころはこういう武家屋敷の静かなたたずまいである。高杉晋作・木戸孝允の旧宅、藩校明倫館の跡などを見学し、松下村塾を最後に萩市に別れを告げたのが12時頃であった。 国道191号に入り東に進路をとる。次の目的地出雲まで約200km。途中、たいした見どころもなさそうなのでノンストップで走ることにする。萩から山口と島根の県境付近までの海岸線一帯は、北長門海岸国定公園に指定された地域である。右手に山陰本線、左手に美しい海岸線を見せる日本海、その間を国道191号はいまにも海にのめりこむような感じで細くくねっている。道路は狭いところでは3,4mしかないが、通行量が少ないのでこれでいいのだろう。「県境で小休止」(山口・島根県境に着いたのは午後1時5分、萩市から55kmの地点である) 県境で小休止していると,愛知県から来たという同じ単車旅行の人と出会い、彼から、島根県警に注意するように言われて気を引き締める。彼が言うには、島根県警はスピード違反摘発にすこぶる熱心で、ねずみ取りをしきりにやっているという。単車旅行で一番怖いのは交通事故ではなく、オマワリさんなのである。ねずみ取りで検挙され、高い罰金を払わされるのは泣くに泣けない。今日中にどうにか松江まで足をのばしたい私にはいやな情報である。彼と別れてしばらく走り、高津川を渡って益田市に入り国道191号もここでお別れである。 益田から国道9号に入る。国道9号線は,下関から山口市、津和野市、益田市、出雲市、 松江市、米子市、鳥取市など、山陰地方の主要都市を結び京都市に至る。一ケタ国道となるとさすがに191号と違って立派な道路である。出雲市までの130kmあまりをこの9号線のお世話になることになった。浜田市で昼食をとり、それから1時間半走りっぱなしで午後5時半頃やっと出雲市に入った。 秋の陽は既に西の空に傾き、出雲平野特有の屋敷の築地松(ついじまつ)と稲架(はで)を紅色に染めている。築地松とは、この平野の農家に見られる、防風林の役割を果たす松の植え込みのことである。家の屋根の高さより更に高くて、上はきちんと刈り込んであって、さながら一枚の屏風のように家の西側と北側にそびえている。遠くから見ると家は見えず、築地松だけが高々とそびえて農家の存在を示している。 また、稲架は刈り取った稲を干すために仕掛けで、高く丸太を組み、そこに一束一束の稲穂を南側に向けて水平に掛けたものである。高さは4,5m、幅は10m近くもあり、それが刈り終えた田んぼに林立している様は壮観である。暮れゆく出雲平野を急いでカメラにおさめ、今にも沈みそうな太陽と競争するように出雲大社のある大社町へ向かう。「出雲大社」(なかなかの威容を誇る出雲大社~左が拝殿、右が本殿) 意外に早く、30分ぐらいで出雲大社に着く。早速社殿をひと廻りする。本殿は高さ25mもあり、大社造りとして古代日本の住宅建築を偲ばせる貴重な遺構である。拝殿も同じ大社造りとなっているが、こちらはまだ新しく、大正時代の建築とか。大きな〆縄が正面にぶらさげてある。陰暦10月のことを神無月というが、ここ出雲では神在月という。この月、全国津々浦々の神々が出雲大社に集まり会議をするからである。 出雲大社にまつられている神は衆知の通り大国主命(おおくにぬしのみこと)であるが、大国主命は「日本書紀」によれば、八俣遠呂智(やまたのおろち)退治で有名な須差之男命(すさのおのみこと)と稲田姫の御子となっている。須差之男命をまつってあるのが熊野大社、稲田姫をまつってあるのが八重垣神社でともに松江市の南の方にある。いわば、出雲大社は、熊野神社、八重垣神社の子にあたるわけだが、出雲大社の方がポピュラーなのは因幡の白うざぎの話に大国主命が善人として登場していることによるのかもしれない。 出雲大社は縁結びの神様として名高いが、これは、大国主命が各国の数多くの姫と縁を持ち妻としたといわれる事からきているという話もあるが詳しいことはわからない。この由来はともかく、結婚という人生上の重大な問題と結びついているだけに、遠くからの参 拝客も多く、その数は年間百万人を下らないという。かく申す小生もやっぱり人の子であ りまして、幾らかの賽銭をあげて、いみじくも深々と頭を垂れたのでありました。「どうか、いいお嫁さんにめぐりあいますように」 大社を出たのが午後6時、すでに陽は落ち、かなり肌寒くなってきた。名物の出雲そば なんて食べるヒマもない。とにかく、松江のユースに1分でも早く着くことで頭の中は一杯である。30分ばかり走って左手に宍道湖の湖水が車のライトに浮かびあがって見えた。もう稲こぎが始まっているらしく、ワラを焼くにおいが一帯に漂い、深まりゆく秋をいやが応でも感じさせる。やがて、宍道湖に沢山の光を反射させて輝いているネオンサインのかた まりが大きく見えてきた。島根の県都である松江の夜景である。 出雲大社から約50分で松江市内に入った。人に道を尋ねながら、松江ユースに着いた のが午後7時20分。早速食事をして、8時からミーティングがあった。若いヘルパーの人の話を聞いたり、皆でゲームをしたりして過ごす。同室の人に岡山からという人がいて、彼もまた単車旅行中で私と逆のコースで明日は萩に行くという。いろいろと話をして情報を交 換しあう。ユースは10時に消灯となる。明日の好天気を祈りつつ、第2夜を迎える。13日の金曜日が無事に過ぎていく・・・・・。(以下続く) ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村