工業デザイナーの条件
裁判長を迎えた工業デザイナー村の村長は、次のように答えた。 十戒には確かにあまりにも多くの誤謬があります。ですから、それは裁かねばなりません。しかし、それを裁いたところで、背後にそれとは比べ物にならない闇が横たわっています。 それをどうするかです。 そもそも、十戒が誤謬に満ちたものであるかどうかより、翻訳のやり方そのもの、翻訳者の集め方、育成の仕方、あらゆるものがまちがっているのです。 たとえば、製造業で新しい分野に進出しようとすれば、どうしますか。その会社にはなかった技術が必要になるはずです。ですから、その分野の技術をもっている会社と提携するか、新たに技術者を引き抜かなければお話にならないわけです。 昔の翻訳会社はそうでしたよ。必ず社内に専門分野の知識をもっている技術者がいました。常駐はしていなくても、出入りはしていました。もちろん、抜群に語学のできる者もいました。日本語が書ける者もいました。 そこで客が頭を下げて頼みにくるわけです。客が技術畑だったら、技術のことはわかっている。外国語の原文だってある程度は読める。しかし、デザインができない。 技術の日本語というものは、意味がわかればそれでいいというものでもない。一度きりのでもない。思考を活性化させ、ことばによって間違いなく技術を継承できるものでなければならない。 将来を担う技術分野の日本語をデザインするんです。それが工業デザイナーたる技術翻訳者の仕事です。 英文科や外大上がりの者にそう簡単にできる仕事ではない。 なぜかと言えば、花鳥風月の美しさはわかっても、工業デザインの美というものがなかなかわからないからです。 まさに、「美しいだけでは叱られます。翻訳は力です」なんです。 ここで力というのは、論理の美しさでしょうね。文系出身者はそういうものに美を感じない。 では、技術者が翻訳をすればどうなるか。もちろん、外国語のできる者が少ないんですが、ある程度できる者、自分ではできると思っている者でも、形の上、構造の上でしか外国語を理解していない者がほとんどです、もちろん、それは英文科上がりの翻訳者にも言えることですが。 技術がわかって、外国語がわかっても、言語の本質的な問題ができないと、自分の頭の中にある論理というものを、言語の論理として再現することができないんです。ですから、構造だけいかにも論理的であるかのような文になってしまいます。当然、工業デザイナーとして通用しないわけです。「なるほど、この男の話は面白い」と裁判長は思った。