カリンからのて手紙 ジェーン・フォンダと量子の理解
カリンからの手紙 ジェーン・フォンダと量子の理解 【専門病院】のつづきです。 そのとき、看護士が走って私に手紙をもってきてくれた。カリンの講座報告だった。 安泊さん、まだまだ入院は続きますか。 今日は情報量村で、またひとつ興味深い話を聞きました。 沈黙はもう選択肢ではない。(朝日新聞、小村田義之) これはジェーン・フォンダさんがイラク撤兵を訴える集会で発言した(とされる)内容です。先生は一目見るなり、ウソだと思ったとおっしゃいました。ジェーン・フォンダがそんな英語を口にするはずがないというのです。もちろん、内容のことを言っているのではありません。 われわれは、英語襲来以来、こういう日本語をいやというほど読まされてきました。どこかしっくりこないのだけれども、外国人の言うことだから、これくらいのことはあるだろうとみんな思っています。本来、「沈黙 = 選択肢」なんてことは数学的にありえないことです。どう考えても[沈黙⊆選択肢]であるはずで、およそ世界中のどの言語でも、この数学的な包含関係を文法によって表現できるようになっているというのです。この場合、ロシア語なら選択肢の部分を生格にし、フィンランド語なら分格、ポーランド語なら造格もありえるのではないかと思えます。今までこんなことを教えてくれるところはどこにもなかったものですから、大変驚き、感激しました。英語ではそこまで凝ったことはしませんが、それでも不定冠詞 an をつけるはずだというのです。なるほど、冠詞とはそういうものだったのですね。先生は「沈黙はもう選択肢ではない」を英語にすると、どう考えても× Silence is no longer the option. にならざるをえないとおっしゃいます。だから、「ジェーン・フォンダがそんな英語を口にするはずがない」とおっしゃったのはそういう意味です。おかしい。どう考えても○ Silence is no longer an option. でなければならないはずだというわけです。さっそくネットで検索してみたら、やはり、その通りの文になっていました。「沈黙はもう選択肢ではない」は誤訳です。先生はそうおっしゃいます。 誤訳とはっきり言い切ったのは先生が初めてです。不定冠詞であるからには、「沈黙はもはや選択肢のうちに入らない」でなければなりません。 それこそが、冠詞もなければ、格変化もない日本語が取るべき唯一の「選択肢」です。 these を「これら」、「これらの」と訳し、allを「すべての」と訳し、furtherを「さらなる」と訳し、比較級を「より~」と訳すのもみな、これと同じ轍を踏んだものです。まずは、「これらの」、「すべての」、「より~」、「さらなる」など、怪しげな西ハワイ語には手を出さない習慣をつけることから始めないかぎり、日本語は英語の構造だけを模倣した形骸と化してしまうこと、まちがいありません。 なるほど、それでよくわかりました。確かに「これらの」、「すべての」などは変ですが、トラドキスタンがそこまでこだわるのはどうしてだろうと思っていました。 何もかもが底でつながっているのです。 先生はおっしゃいます。 言語は逆説に満ちている。 英語を理解しようと、己の本来の文法、本来の表現を少しでもねじまげて、その場しのぎの訳をつくろうとすれば、そのねじまげた分だけ英語の理解から遠ざかる。英語にかぎらず、世界のどの言語の理解も、母語が本来秘めている力を最大限に活用してはじめて可能になることである。 今、日本国では、母語の本来の文法を捨てムリヤリ英語に近づけようとしている。 だが、その行為こそまさに、英語の本質、言語の本質から遠ざかる行為なのである。←ランキングに登録しています。クリック,よろしくお願いいたします。