「みかん畑に帰りたかった」を読んで
北極から愛媛の実家まで6年がかりで歩いて帰宅する。 「リーチングホーム」と名付けられたそんな壮大な計画の半ばで倒れた希有な冒険家「河野兵一」のルポタージュである。 かの植村直己が活躍した1960年代以降、その後を追うようにして様々なタイプの冒険家が現れては消えていったが、冒険史に燦然とかがやくような華々しい活躍をした冒険家はいなかった。 その意味で未知を求めるという大時代的ロマンをもとめる冒険は植村の時代で終わっていたといえるだろう。自転車で世界を一周したにせよ、エベレストに登ったにせよ世間はそれを冒険とは認めてはくれない。なぜならすでに人がやってしまっていることだからだ。ならばこそ自己の名を世間に知らしめるためにはその冒険に「商品価値」が必要とされる。冒険の質は問わない。「7大陸最高峰」や「史上最年少」「史上最速」などただ一般人にわかりやすい題目があればよい。しかし質を落とし、観衆の視線を意識した時点でそれはもはや冒険ではなくクライアントに配慮を要する商業活動になってしまう。誰かのために登るのではなくて、あくまで自分のために登ることに冒険が冒険としての輝きを放つ瞬間がある。探検的な冒険が収束した1980年代から90年代初頭にかけてに、日本経済は爆発的に発展し経済的な力とアウトロー的生き方の社会的受容と価値観の多様化などがあいまって様々なプチ冒険家が地球上をばっこした。しかしその多くは無名のままけして華々しい表舞台に出てくることはない。1980年にエベレストが無酸素で登頂され、クライミングの世界ではヨセミテから輸入されたフリーという概念がクライミングの常識を変えようとしていた。登山の世界ではより困難を標榜するものこそが価値が認められ、ただ単にエベレストやマッキンリーなどに登る登山はハイキングとまで言われた時代である。そんな時代にあって自らマスコミに自分を売り込んでスポンサーを得ることの出来ない、あるいはそれをいさぎよしとしない冒険家は冒険は自分のためという大義名分を忠実に実行していたのである。あるものは「グレートジャーニー」という題目を掲げ人類の起源をさかのぼる旅に出。またあるものはアフリカの地に自分の活路を見いだし。またあるものはリヤカーの旅に自身の生き甲斐を見いだす。そこには誰もが認める絶対的な価値観が崩壊したあとで、自身の内なる価値を見いだそうとする時代の潮流があった。そんな時代の代表的な冒険家が河野である彼はこの時代のあまたある冒険家と同様にまったく書物を残してはいない。しかし彼がある程度の知名度を有しているのはその生き方の強烈さ故である。本書は彼と一時冒険をともにした著者の旅行記を核に著者の旅と交錯する河野の旅を描きそしてその人生をそのままに浮かび揚げる。20歳の時に故郷の愛媛を後に坂本龍馬の銅像に挨拶をしたあとで自転車による海外武者修行の旅に出る。そしてアラスカを自転車で走っているうちに目の前に現れた北米最高峰のマッキンリーにどうしても登りたくなって登山隊にもぐりこんで登ってしまう。その後南米を自転車で旅しながらアコンガクアやワスカランなど数々の6000m峰を足下におさめ、さらにサハラ砂漠のリヤカー縦断。北米大陸徒歩縦断。さらに登山隊に見初められて8000m峰最難関と呼ばれるナンガパルバット(8125m)ルパール壁の登攀(失敗)。その後北極点に立ったあと北磁極からのリーチングホームを実施している最中に帰らぬ人となる。彼の旅のひとつひとつが光彩を放つのはその無欲なまでの好奇心と行動力である。登りたいから登る旅したいから旅にでる誰のためでもない。ただ自分のために。自分の好奇心の赴くままに旅の扉をあけ、そして立ちはだかる壁を次々にこえてゆく。もしも彼がその輝かしい冒険歴を商品に換える手管があればそれで彼は冒険家の成功者としてその名を一般社会に知らしめたあげくに残りの人生を穏やかに豊かに過ごすことができたのだろう。しかし残念ながら彼は年齢を重ねつつも好奇心と行動力を減じることなく、最後まで走り続けた。そこに植村直巳を始めとしてつきることのない冒険家の業のようなものを感じるのは私だけだろうか。冒険家河野兵一は北極から愛媛の家まで歩いて帰宅途中に北極の氷原にて帰らぬ人となった。今、途中でついえた冒険家のスピリッツをつぐような人物が日本にいるか。誰のためでもない自分の生のために登る。そんな純粋な冒険が堂々と主張できた時代が少々懐かしく、そしてうらやましい。