教育・哲学・憲法を考える・・・・(その1)。
独裁国家の首長が急死して間もないのだが、かの国では言論の自由が無いばかりではなく、殆どのことが自由ではないし、信じがたいことだが、死んだ首長のために泣いていないものは列車に乗ることも許されなかったと言うから、感情さえ強制されるのだ。そうした国家内の社会では世界の真の情勢を知ることが出来ず、統制された国家の発表だけが情報源であり、それ以外を知る方法を与えられない社会だから、人間としての思想や基本的思考論理もコントロールされて子供達は育って行くことになるのだ。普通に考えれば、生まれてきた子供は、その国籍による国の法律によって保護されたり、権利を与えられたり義務を負ったりするが、親権についても、どの国に生まれたかと言うことによって異なってしまうわけだ。日本では、成人するまでの養育は親の義務であるが、成人後は、《民法第877条 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。》と言った法律もあり、生活力を有する直系の親族や兄弟には生活力のない者を扶養する義務が負わされている。しかし、養育ではなく教育ということでは、日本では親が我が子に何を教育しても、それが公序良俗に反しない限り、概ね罪にはは問われないだろう・・・実際に宗教を強く信じている親が子供を同じ宗教に入れて教育してしまうと言ったことも行われていて、カルト宗教の信者の二世問題と言うものが実際には存在している。日本の憲法第二十条では、 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。とあるから、親が無垢な我が子を宗教に染めると言う行為は、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。という条文を正しく解釈するなら、憲法違反となるのではないか?と考えられる。さらに、憲法第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。と言う条項は親が子に行う教育行動として、特定の思想や哲学を用いることを法律は許容するのだろうか?1948年12月10日に第3回国連総会において採択された世界人権宣言の中の26条3項では、親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。とあります。わが国の民法第820条では、 親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。ともあります。憲法や民法に規定された教育についての事柄を知ることは、教育について語る時には避けて通ることは出来ないが、そもそも「教育とは何か」と問う事は「人間とは何か」「人間とは如何あるべきか」と言うことを明らかにすることと殆ど変わりが無く、人間とその存在と言う問題を深く掘り下げる哲学が不可欠となります。そこからのゆるぎない論理によって導かれる普遍的な原則が教育と言う行為には求められることではないか?と私は考えるのです。つまりそのことは、教育のみならず、日本国憲法も、それが正しいものとして論じる前に、本来は日本人全てが認める哲学的基盤を共有している必要があるのではないか、と考えていると言うことであります。私の考えでは、哲学なき憲法など在り得ないと言うことになるから、それがいかなる哲学を以って創案されたのかを問わざるを得ないことになるわけです。そもそも、その国の憲法を草案するには国民が認める哲学の存在が必須となるはずであると言う論理から発生するのであるが、同時に「国とは何か」という定義を共有していなければならず、日本の民主国家としての憲法は、前提となる概念を共有する国民により正式で誤りの無い選挙によって選ばれた代表者によって充分に吟味された上承認されていなければならないと言えるはずである。しかしながら、我々の国の根幹を成すべき、日本国憲法の前提となる哲学を語っている文書は存在するのだろうか? 例えば日本国憲法前文がそれに当るとするのなら、その文書が誰によって書かれたのか、日本国民によって何時どんな承認を受けた哲学なのかを明示しなければならないのではないだろうか?日本国憲法前文日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。私はこの日本国憲法前文の内容について疑問を呈したいのだ。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」黄色の文字部分について、人間相互の関係を支配する崇高な理想とはいったいどんな理想なのか? 何が崇高だと言うのか? そのような曖昧な表現を日本国民の名に於いてどう深く自覚したと言うのか? 曖昧なだけでなく全くその理想であることについての文言が無いし論理的な証明がなされていないから、殆ど印象操作のために用いられた言葉のトリックのように感じられる。また、続く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と言うくだりも、現実的な国際関係の認識からはかけ離れていると感じるし、実際公正と信義に信頼すると言う文章は、いわば怪しい相手に信頼すると言って、害ある行動を抑制しようとする交渉戦術のようにも受け取られかねず、実際にその、決意したと言う宣言が影響力として機能するような国際社会であろうか?ということも、大いに疑問であるから、単なる美辞麗句に思え憲法の前文としてふさわしいものか大変疑問に感じる。誰が書いた草稿であれ、その内容が正しく理解し得るもので、誤りがないのであれば、それを国民の代表達が承認した時にそれは自分達の国の宣言となるかもしれないが、この曖昧さや国際感覚は私には容認しがたいのです。明快で具体性もあり、誤りがなければ害は無いかもしれないが、この日本国憲法前文はマッカーサーとGHQの提出した草案文とほぼ変わりが無いではないか?《以下参照》GHQによる草案文We, the Japanese People, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of~原文の全文は以下を参照下さい→(ここに全文があります) ~We hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other peoples. To these high principles and purposes we, the Japanese People, pledge our national honor, determined will and full resources. ウィキペディアに掲載されている訳文我等日本国人民ハ、国民議会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル我等ノ代表者ヲ通シテ行動シ、我等自身及我等ノ子孫ノ為ニ諸国民トノ平和的協力及此ノ国全土ニ及フ自由ノ祝福ノ成果ヲ確保スヘク決心シ、且政府ノ行為ニ依リ再ヒ戦争ノ恐威ニ訪レラレサルヘク決意シ、茲ニ人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ、国政ハ其ノ権能ハ人民ヨリ承ケ其ノ権力ハ人民ノ代表者ニ依リ行使セラレ而シテ其ノ利益ハ人民ニ依リ享有セラルトノ普遍的原則ノ上ニ立ツ此ノ憲法ヲ制定確立ス、而シテ我等ハ此ノ憲法ト抵触スル一切ノ憲法、命令、法律及詔勅ヲ排斥及廃止ス 我等ハ永世ニ亘リ平和ヲ希求シ且今ヤ人類ヲ揺リ動カシツツアル人間関係支配ノ高貴ナル理念ヲ満全ニ自覚シテ、我等ノ安全及生存ヲ維持スル為世界ノ平和愛好諸国民ノ正義ト信義トニ依倚センコトニ意ヲ固メタリ、我等ハ平和ノ維持並ニ横暴、奴隷、圧制及無慈悲ヲ永遠ニ地上ヨリ追放スルコトヲ主義方針トスル国際社会内ニ名誉ノ地位ヲ占メンコトヲ欲求ス、我等ハ万国民等シク恐怖ト欠乏ニ虐ケラルル憂ナク平和ノ裏ニ生存スル権利ヲ有スルコトヲ承認シ且之ヲ表白ス 我等ハ如何ナル国民モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニアラスシテ政治道徳ノ法則ハ普遍的ナリト信ス、而シテ斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ自己ノ主権ヲ維持シ他国民トノ主権ニ基ク関係ヲ正義付ケントスル諸国民ノ義務ナリト信ス 我等日本国人民ハ此等ノ尊貴ナル主義及目的ヲ我等ノ国民的名誉、決意及総力ニ懸ケテ誓フモノナリ 私の主張は、各論に相当する憲法の条文などは誰が書いたものでも、どの国の憲法の模倣でも構わないが、その憲法の基本となる哲学が日本人によって承認される日本人の哲学であることが望ましく、憲法の拠り所となる哲学的論拠を開示する必要があるのではないか?と言うことです。もし日本国憲法前文がそれに当るというのであれば、憲法の論拠はGHQの草案文の焼き直しであると言うことになり、この国の憲法は米国に与えられた哲学によって成り立っていることを意味することになりはしないだろうか? 私はそれでもそれが明快で理解しやすく誤りで無いなら、100歩譲って出所を問うまいとも思うのだが、その言葉の一部は美しい入れ物には入っているのだが中身が明確でもなく演説のための欺瞞のようにさえ感じるのです。そして基本的には、本来このような宣言文が、GHQによって書かされたものであって良いものなのだろうか?そしてそれを日本人が後生大事に見直しもせずに奉っていて良いのだろうか?と言う疑問に突き当たるのです。憲法の内容も重要ではあるが、根幹の哲学がGHQの受け売りとは、やはり情けなさ過ぎると思うのです。続く1月4日一部修正しました。