神戸大学住吉寮について(2)本題に入る
(1)では、私自身の入学の経緯と寮に住む事等の経済的メリットについて書きました。が、肝心の話を書いておりません。そこで住吉寮について以下の事を書いてゆきます。○場所・由来等○入寮時の驚き○寮に住んでいた囲碁部員の話と私の入部について書きます。また住吉寮は、女子寮・職員寮・教育学部付属施設と隣接しておりました。それらに関係したオモロイ話もありますが、それはまたの機会に書くとしましょう。寮の話をなぜ「ざる碁日記」に書くのかと言えば、私の囲碁部員として主な活動の場でもあったからです。○場所・由来等住所は、神戸市東灘区住吉山手7丁目3-1。阪急御影駅より北へ2km・徒歩25分。市バス「赤塚山」下車すぐ、です。山の高台に位置していますから、寮生はバイクが必需品でした。昭和30年代に繊維メーカーの従業員寮だったのを国が買い上げたそうです。鉄筋コンクリート4階立て。昭和20年代後半に立てられた物らしく、私が入学した時点で既に老朽化しておりました。私が自治会役員だった頃も「文部省が立替ようとしている」事についていろんな議論がなされておりました。昭和47年までは教育学部校舎が、南に隣接していました。私が入学した頃には教育学部(現在は、人間発達科学部と改名している)は鶴甲に移転した後で、その校舎は、神戸市立赤塚山高校になっていました。さらにその南には人間発達科学部付属小学校・中学校がありました。由来。神戸大学は戦後、総合大学になりましたが、戦前の神戸高等商業学校・神戸高等工業学校・兵庫県立師範学校・神戸医学校などを統合した寄せ集め大学なのでした。住吉寮には「白陵寮歌」というのがありました。戦前の師範学校は、御影と姫路にあったらしく、姫路にあった師範学校は通称「白陵」と呼ばれていたそうです。(まとめ)住吉寮は、かつて繊維メーカーの従業員寮だった。もともと教育学部に隣接していたため戦前の師範学校の伝統が残っていた。hatさんがおられた京大の熊野寮ほどではないが学生運動の巣窟だった。○入寮時の驚き入寮した時、寮の敷地には桜の花が満開で、なんと美しい所だろう、と感激しました。が、門を入るとと学生運動(いわいるサヨク)のポスターや落書きだらけ。壁の塗装は剥げまくり、床のPタイルも欠けまくりで、なんと汚い所だろう、と落胆しました。寮内には野良猫が徘徊してました。寮生が子猫にエサを与えて後、放置していまうからでした。本田の期間工の寮より、ずっと汚いので呆れました。○寮に住んでいた囲碁部員の話と私の入部寮内には4人の囲碁部の先輩が住んでいました。寮は原則として寮生の自治するものとされており、1年生は何らかの自治会活動に参加する事が義務とされていました。その活動の一つが「炊事部」で寮食堂の運営だったのです。料理が得意な私は、それに参加しました。そこに二人の囲碁部員がいたのです。M島さんとF本さんです。まずM島さんと一局打ちました。手合は忘れましたがボロ負けした事は確かです。M島さんから「五段の先輩がいるよ」と言われてO野さんの部屋に連れてゆかれました。O野さんは出雲高校が全国優勝した時の主将であり、卒業後に千葉県の代表になった人で当時の囲碁部の主将&部長でした。私は五子で惨敗しました。私は落語研究会にいましたが、授業やバイトとの兼ね合いで練習に参加できず退部しました。囲碁部の練習にも参加しませんでしたが寮内で夜、先輩たちに教えてもらううちに自然に囲碁部員になっていったのでした。私の同級生や後輩の寮生にも囲碁部員がいたし、寮を夜に襲撃して碁を打ちに来る囲碁部員も多かったのです。このため住吉寮が囲碁部の活動拠点だったのでした。