我が生い立ちの記 -その参- 青年時代
古いアルバムから:当時の糸繰りの様子 島の女性は12~3歳頃には既に紬の仕事に就いていた大島紬よ永遠なれ~自伝・資料集~ から一部回想記をご紹介してます。著者:岸田文司(85歳)本場奄美大島紬伝統工芸士会顧問-----------------------------------------------------------------------------高等小学校卒業後は、母が営んでいた大島紬の製造業を手伝う事にした。当時でも大島紬は高級品で産業としても確立されつつあり、一般の労働賃金(殆どが農業や、土木作業といった重労働)が1日70銭に対し、大島紬業の賃金は30銭前後であったと記憶している。糸繰り、糊張り、絣仕上げなどの作業を行った。特に泥染めの地縦糸は繰り難く、1日7玉(1玉(綛)は2,500mで7玉で縦糸1疋分)を操ることが精一杯であった。並行して農業も手伝った。1,000坪余りの畑があり、米、イモ、四季の野菜を作っていた。鍬の使い方もわからず、叔父(母の兄)より教わった。田全部の見回りから始まり、草取り、稲刈り……。次から次へと作業に追われた。10代の私には非常に1日1日が重労働であった。同級生らは、進学以外は阪神方面への出稼ぎが多かった。便りでは皆苦労している様子であり、「自分も頑張らねば」と自分自身に発破をかけた。 家業以外での仕事も初めて経験した。 名瀬町より赤尾木町までの地下ケーブルをひく敷設事業が行われ、私の住んでいた浦上地区も通るとの事でやらせてもらった。1日のノルマは約2mの距離であったが、幅60cm、深さ1.5mを手にしたことのない、ツルハシ、スコップで地面を掘り起こし、ケーブルを埋めていく。手に血豆はできるし、1日8時間労働はこれまた重労働であった。1日70銭、5日で3円50銭。初めて賃金としてお金を受け取る事ができて嬉しかった。そのお金で青年学校の制服を買った。当時は20歳までの若者は進学以外ではほとんど皆が、青年学校に行くようになっていた。半義務的で本科5年と、研究科等があった。軍国主義の時代でもあり、社会教育と軍事教練が目的だったと思うが、日本国という愛国心を徹底的に叩き込まれた記憶がある。職場(仕事)の都合で行けない者もいたが、私は何とか5年まで終えることができた。大島群島の徴兵検査も名瀬市(町)で行なわれる。体も弱くこの頃は自分が戦争に行くなんてことは、少しも考えていなかった。むしろ早くこの青年学校を卒業して、大島紬の仕事をしたいと考えていた。この頃<昭和初期(1920)年代>の大島紬は、製造技術が安定しておらず、特に柄や染色技術にはまだまだ改善の余地があった。2年ほど家業で大島紬製造に従事したが、良い製品を作るためには、更に専門的な技術の習得が必要と常に感じていた。 昭和14年(1939)には鹿児島県工業試験場の分場として、「鹿児島県大島染織指導所」が名瀬町に設立されることになった。昭和12年(1937)にちょうどいい機会だと問い合わせをしたところ、図案(デザイン)科1年、染織(染色、締加工)科2年を養成している事がわかった。最初図案科を学ぶ予定であったが、自営業として製造していくにあっては「染色と締め技法」が大事と従兄平井平寿(当時浦上区長、後に三方村議)に勧められ、染織科に願書を提出した。 ここから大島紬への研究と製作にのめり込んでいくことになる。 ⇒つづく□□□■■■-------------------------------本場奄美大島紬専門店 奄伽樂(あまから) http://www.amakara.jp -------------------------------■■■□□□