さかなおやじのでたらめ戦国史 vol.006
「関が原裏切り4人組」のトップバッター「赤座直保」の謎は他にもいっぱいあります。2番目の謎は、関が原では途中で寝返ったにもかかわらず「西軍」とみなされ、戦後所領没収の憂き目にあった彼が、なぜ前田利長に7,000石もの大禄で召抱えられたかって言う事です。 言って見れば、彼は「負け組み=賊軍」な訳です。当時、徳川家から嫌疑の目で見られることに戦々恐々だった前田家が、何故わざわざ彼のような「危険分子」を家臣としたのでしょうか?当時の前田家当主の前田利長が気骨のある人物ならば、関が原以前に家康から戦を仕掛けられそうになった際、ひたすら弁明に努め最終的には実の母親である芳春院を人質として江戸表に差し出すような真似はしなかったでしょう。 個人的には「赤座直保」の関が原前後の行動には前田家の意向が少なからず影響していた物と考えます。つまり、ある程度は赤座家と前田家は事前の連携がなされていたのではないかと言う事なのです。当時、加賀の大藩であった前田家とその周辺部分の小領主に過ぎない赤座家には、少なからず主従関係のようなものが存在していたと考えるのが自然でしょう。 しかも、関が原前後の前田家の行動もかなり怪しさに満ち満ちています。関が原では家康率いる東軍に属すると旗色を明らかにした前田家ですが、実際には関が原の合戦には参戦していません。一応史実では「東軍に属した前田利長率いる前田軍25,000人は金沢を出撃し東西軍決戦の地を目指す。途中、大聖寺城・北の庄城を落とし関が原に向かうが、西軍に属した敦賀領主大谷吉継が救援の兵を差し向け、さらに前田家の本拠地である金沢を海路攻め込むと言う情報を得て、反転金沢にもどる。その後、再度出撃を試みるが、すでに関が原の合戦は終了した後だった」と言う事になってます。 うーん、あまりにも怪しすぎます!(笑)。当時前田軍は25,000人、対する大谷軍は関が原に参戦した兵士数でも僅か1,000人前後に過ぎません。敦賀の小領主に過ぎない大谷吉継が、金沢を陥れるような大軍を擁する訳がないのは誰が考えたって明らかでしょう。にもかかわらず、噂を耳にして金沢に反転するのはどう考えても前田家がはじめから東西両軍のどちらにも味方したくないと考えていたからに違いありません。その後の行動を見ると、この「前田利長」と言う人物は家康に負けず劣らずの「クセモノ」みたいで、一筋縄では行かない様なので、この想像はいよいよ現実味を帯びてきます。 前田家の不可解な行動は後述するとして、関が原の合戦後に路頭に迷うことなく「赤座直保」が前田家に仕官できたのは、その辺りの裏事情を他の人間に漏らされては困る「前田利長」による口止め料だったと考える事も決して無理ではありますまい。