佐佐木信綱 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
佐佐木信綱(ささき・のぶつな)ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひとひらの雲歌集『新月』(大正元年・1912)註今では誰もが、映画技法(カメラワーク)の用語を用いて「ズーム・アップとパン・アップの歌」というようになった近代の名歌。100年以上前にこのダイナミック(動態的)な視点を発見していた佐佐木翁の偉大さ。格助詞「の」を6つも畳み掛けて対象をぐんぐん絞り込んでゆく話法も、今の目で見てさえ斬新に感じる。「短歌人」11月号掲載の拙作「透きとおるみどりの瓜の粕漬の光食みたり夏の昼餉に」での「の」の多用も、この歌が頭の片隅にあった。なお、万葉集に詳しい短歌ブロガー仲間の けん家持さん からコメント欄に、この歌は志貴皇子の「石走る垂水の上の早蕨の萌えいづる春になりにけるかも」(万葉集 1418)の本歌取りではないかとのご指摘があった。なるほど、言われてみれば肯けるふしが多々ある。こちらは「ズーム・ダウン」の視野で、「(来る)春」と「行く秋」もちょうど逆になっているが、それが好対照とも見え、「の」を畳み掛ける言い回しの共通項も含めて、ご指摘の通りである可能性は小さくないと思う。けん家持さん、ありがとうございました。和歌・短歌が他の詩形と違うところは、歴史の長さ以外にもいろいろあろうが、一つにはこうした言葉遊び・パズル的な面白さと表現が緊密に一体化していることもあると思う。