西村賢太 「苦役列車」を読む ── 芥川賞受賞作
昨夕(きぞ)いそいそと近所のコンビニで「文藝春秋」3月号を買ってきて、さっそく一杯やりながら西村賢太氏の芥川賞受賞作「苦役列車」を読み始めたが、世評にたがわず巻を置く能(あた)わずの面白さで一気に読了、久方ぶりに小説を読むことの楽しみを堪能した。同時受賞の朝吹真理子氏の「きことわ」も、パラパラと繰りつつ、ざっと瞥見。こちらは明らかにフランス文学マルセル・プルースト/アンドレ・ジッド系マトリョーシュカ入れ子細工の時空構造を以て、過去と現在を往還する脳内実験的人工楽園。仏文をやりたかった僕にとっては、朝吹というやや特異な苗字を聞くだけでピンときて直立不動のプリンセス真理子(しんりし)内親王殿下であらせられ、むしろこちらの方が本丸というべきであろうが、なかなかハードルが高く思われるのも否めない事実である。・・・「きことわ」は、のちほど改めてゆっくり熟読玩味することにしてと。いずれも、純文学の新人賞にふさわしい渾身の力作中篇。まず言えることは、いずれの作者も文章表現がずば抜けて上手いということ(天下の芥川賞を授けられた作品であるからして、当たり前といえば当たり前だが)。・・・と同時に、よくもまあこれほど対蹠的な作家・作風が並んだものだと、その天の配剤の妙に感心。どちらも、ロケーションとしては共通に、南関東の海辺近くで展開される物語、いうなれば「海辺の光景」である。しかし、試みにそこに現われる固有名詞の地名を拾うならば、こなた「昭和島の羽田沖、平和島、芝浦、豊海、鶴見の現場」などであり、かたや「逗子、葉山、湘南の別荘」、はたまた「三億五千万年前のデボン紀の海」などである。ああ何という月とスッポン、・・・いや、ドブ貝というべきか。「苦役列車」は、東京「江戸川区のはずれ、ほぼ浦安寄りの町」に生まれ、理不尽な暴力の跋扈する雰囲気の中に育ち、不運不遇な少年時代の間にすっかりひねくれやさぐれて、狷介固陋で陰鬱頑冥な「若年寄」のような人となりを獲得しつつも、それなりの最低限の見栄と矜持という根拠なきプライドのようなものを辛うじて保持しているかに見える孤独な19歳の若者が主人公(プロタゴニスト)である。その主人公「北町貫多」が、今や「中卒・逮捕歴あり」のキャッチフレーズ(?)で、フリーターの希望の星と仰ぎ見られている作者「西村賢太」その人の分身であることは、誰の目にも明らかである。その自伝的リアリティに、そこはかとなく鬼気迫る。ややカッコよく言うと「沖仲仕」ともいうのであろうか、その実、最底辺の日雇い港湾労務者として、単調できつい肉体労働の対価である5,500円の日当で糊口を凌ぐ生活の中で、ある日ふと爽やかで人好きのする同年輩のスポーツマンの青年と現場で知り合い、一緒に「覗き部屋」やソープランドに行ったりと、やや奇妙でささやかな友情を育むかに見えつつ、案の定、酒の上での些細な行き違いから、なし崩しに予定調和的な破局を迎え、元の木阿弥の孤独な貧窮生活に戻るという、自虐的・破滅的な「イタイ」私小説の枠組みを持つ力作である。安酒を引っかけて帰ってきて、「エロ雑誌の美女三人」をオカズに「日課の自慰行為」に耽る描写なんぞも、しごく当然の日常茶飯事としてさらりと描かれる。上品な女性読者などは顔を顰め、目を背けるであろうリアルで即物的な描写が淡々延々と続くが、あにはからんやその筆致は決して単調ではなく、退屈させずページを繰らせる。男の読者であれば、おのれの境涯はともかくとして、主人公の気持ちや言動は分かる分かると共感しきりの渦中に投げ込まれる。お世辞にも上品とはいえないが、決してDQN(ドキュン、今風のならず者)ではなく、ある種の鋭敏さと繊細さもありありと宿しているこの若者とお近づきになりたいとは決して思わないが、遠目に見ている分には十分に感情移入や共感ができる内面の吐露がじわじわと胸を打ってくる。19歳の男子なんて、学生だろうが労務者だろうが、本質的にはだいたい同じようなものだとの感慨も湧く。・・・銀の匙(スプーン)を銜(くわ)えて生まれてきたルーピー鳩山兄弟のようなごくごく一部の特権階級を除けば、だが。これは、いわば「ファーブル昆虫記」の観察みたいなものだな。それを人間に適用した。特にフランスで発達したフローベールなどのリアリズム(写実主義、現実主義)をさらに推し進めたエミール・ゾラなどの自然主義(ナチュラリズム)の系譜の、日本的変奏である田山花袋以降の私小説の正統な末裔である。そういえば「にっぽん昆虫記」という日本映画の名作もあった(今村昌平監督、左幸子主演、昭和38年・日活)。これも全篇リアルな描写の中で、主人公の逞しい女の一生が語られる。さらに言うなら、30~40年前だったら「社会主義」だとか「革命」とかの観念形態に誘導されつつ語られていたかも知れない貧窮をめぐるモチーフの数々が、安易に陳腐きわまる政治や経済の問題とか、はたまた文学ではよくありがちな罠である「神」とか「不条理」とか「実存」とかに一切還元されないで終始するところがとりわけよく、ある種のリアルさと「純粋性」さえ際立たせている。青春小説としての「すがすがしさ」さえ湛えているといって差支えないだろう。大いなる物語 ──「大風呂敷」といってもいいだろう── は、すでにあらかじめ終わっているのが現代である。今どきキリスト教やマルクス主義でもあるまいて。これが本来の小説というものでありつつ、こういうフラットさこそが今という時代なんだな~と思わなくもなかった。選評で、こういった点での踏み込みが慊(あきたりな)いという趣旨のことを言っている選考委員もいて、やや同感できる部分もあるが、むしろその人の文学観の「古典性」を露呈していると見るべきなのかも知れない。また、賞獲り、わけても芥川賞ともなれば、大胆な起伏・冒険・暴走よりは、やはり端正な完成度、調和的な小宇宙の構築が評価されがちであり、ここであまりに奔放さを要求するのは作者に酷であり、望みすぎであるといえよう。それは今後の健筆に期待するべきであろう。なお、作者・西村氏と主人公・北町についてのある程度詳しい情報は、こちらにまとめられているので、ご覧下さい。・・・ネットって本当に便利ですね~■ 芥川賞作家・西村賢太の分身、北町貫多の7つのひみつ