橘曙覧 たのしみはまれに魚烹て子等皆がうましうましといひて食うとき
橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみはまれに魚うを烹にて子等こら皆が うましうましといひて食くふ時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん連作楽しいのは、たまに魚を煮て子ら皆が「うまいうまい」と言って食べている時。註作者・橘曙覧には男ばかり三人の子がいた。長男の井出今滋(いで・いましげ)は、明治維新後教育畑を歩み、のちに山梨県師範学校(現・山梨大学教育人間科学部)校長。明治天皇の行幸(ぎょうこう・みゆき)の供奉(ぐぶ・お供)などを務めた。また、父・曙覧の遺稿をまとめ、「志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集」として明治11年(1878)上梓。俳句・短歌の巨人・正岡子規の激賞を受け、近代短歌の魁(さきがけ)と目されるに至った。特にこの「独楽吟」連作52首は、和歌史上の珠玉の名作といわれる。こうした、いわば卑近な日常生活、家庭・家族愛を詠んだ歌は、万葉集の山上憶良の数首を除けば、日本の詩歌1300年の伝統にほとんど欠けていた要素であり、大きな盲点であったといえる。こうした歌風を称して、現在の歌壇では「ただごと歌」という。「ただならぬこと」の対語であり、時代の趨勢のリアリズムである。ドラマチックなことなんて、普通そんなに起こらない。