今は亡き姑に ** 7.形見
Momが亡くなった後、コンドミニアムや車、家具、服など処分することになった。 日本だと、近い親族や友人などに、形見分けがあるが、こちらではない。宝石類は誰に、家具は処分して、収益をどこそこに寄付、服は教会に寄付してなど、遺言どおりに決まっている。日本人と違って、故人の身に着けていたものなどに、感傷はないようで、さばさばと処分してしまう。 遺体とか遺骨への家族の執着も、ほとんどない。 気の済むまで泣いていないうちに、葬儀屋の人たちが来て、Momの遺体をストレッチャーで連れて行ってしまった。あれよ、あれよという間だった。一週間後のメモリアルサービスのときに、遺灰になって戻ってきた。 ゆっくり、お別れをしているまもなく、呆然としているうちにすべてが終わってしまった。私には、思い出だけしか残らなかった。 私は、頼み込んで、Momがその年の冬に身に着けていた、コートを貰い受けた。何の変哲もない、そこらへんのおばさんたちが着ているような、ショートコートである。自分が着るわけではないのに、どうするんだ、と皆ふしぎがっていた。 このコートは、今も我が家の玄関先のクローゼットに、掛けてある。Momがまだ元気だったとき、私たちを訪ねてきたとき、そこに掛けたように、ハンガーに吊るしてある。 娘は当時、まだ赤ちゃんだった。Momと一緒にとった写真も2枚しかない。このコートを形見としてもらいうけておいて、本当によかった。故人が身につけていたものがそこにあるだけで、Momの存在が改めて、リアルに感じられる。娘が大きくなったとき、このコートをどう思うだろう? 他の人たちのように、ただの古いコートと思うのだろうか? 物に、心が宿っているわけではない。私の感傷だけが、この形見にまとわりついている。