二本目 サニタイズされた情報
サニタイズとは消毒を意味する言葉である。透明化、情報公開を掲げる民主党であるが、その透明化の実態はインターネットの動画に限られたもののような気がする。その一例として先日行われた民主党幹事長の定例記者会見をあげたいと思う。小沢一郎幹事長は16日夕、党本部で定例会見を行い、陳情制度改革は民主主義的革命を実行するためのプロセスだとその意義を説いた。 はじめに、外国人地方参政権法案に関する質問に対し小沢幹事長は、現在韓国政府サイドおよび在日韓国人の方々から要求が非常に高まっていること、党としてかねてから積極的な姿勢を示した経過もあると述べたうえで、「私自身としては、政府の姿勢を鮮明にする意味からも政府提案が望ましい」との考えを示した。 同日開催された与党幹事長・国会対策委員長会談における国会改革の説明を受け、社民党が党内で議論を早急に行ったうえで最終的な結論を出すとして持ち帰ったことに対しては、「論理的に難しい話ではないのでなるべく早く結論をいただき、与党3党揃って議会制度協議会にかけて議論してもらえればいいと思う」と話した。 分権型陳情への制度改革については、政策等については内閣で最終決定するが、地域の都道府県連や国会議員を中心に政府に声をもっと届けてもらいたいとの要望があると指摘。また、個々の国会議員と官僚とがいろいろな機会に接触することで結果として利益誘導の政治や政官業の癒着の構造を生んでいるとして、公開し草の根の意見を吸い上げるシステムだと説明。最終的な目的は、地方に係ることは予算も権限も一括して渡すことだと改めて強調し、「今はそれに向かい民主主義的革命を実行するためのプロセスとして、まずそうした弊害を断ち切り、公開性、透明性を持たせるシステムにしようと考案したものであり、各地域でも喜んでいるとの声を聞いている」と語った。 同意人事に関しては、「政府が答えるべき話」だと前置きしたうえで小沢幹事長は、同日の役員会で山岡賢次国会対策委員長から、「自分の所管の特殊法人や民間企業で権限を利用しポストをとることは止めにしようというものであり、今回の人事院および日本郵政の社長人事は、官僚出身ではあるが官僚時代の所管の問題とは別個のことなのでそれは是とする」との説明があったと明かした。以上小沢一郎公式ウェブサイトより引用記載されている情報は、以上であるが、記者会見の模様を写した動画には、そのほかにパーチティ券購入の時期の問題、陸山会の問題といった小澤一郎氏個人の問題もなされている。動画をご覧になればおわかるのだが、いずれの問題に対しても「度々申し上げている通り」との紋切り型の回答をしているのみである。「政治資金に関しては違法な行為をしていない」と付け加えているが、このようなやり取りがあったことは、文書にはなっていない。動画配信の場合、最初から最後までとりあえずは見ないと(興味がなくとも)理解はできない。文書では、自らの価値観に照らし合わせて、必要不必要というものを瞬時として判断できるものである。したがって、動画よりも使う時間量が圧倒的に少なくて済む。なおかつ巻き戻す必要もなく、重要ポイントに関しては理解ができるまで何度も読み返すことも可能になる。勿論私は動画としての表情や声のトーンなどといった印象を伴うことに関しては、文書よりも優れていると評価するに吝かではない。私は、このような一問一答を完全には正確でなくてもよいが、すべてを表記すべきであると思うがいかがだろうか。小澤氏は、やましいところがないと言っているのであるから、このような質問があったことなどを正直に記載すればよいと思う。このような消毒された様な情報は、かえってやましいことを隠したいのではないかというような憶測を呼ぶことになり、不利になるように私には感じられる。。。私の政治家の金銭問題への関心度は非常に低い。阿呆な政治家ではあるが、お金、異性関係には潔癖な人間とお金異性にはだらしないが、政治家として有能な人とどちらを選びますか???勿論異性関係にだらしない、お金にルーズであることは、国家機密保持の上では問題がある。従って一定の範囲においてということと理解してもらいたい。お金に関しては敵対国からのものとすれば、別問題であり、金銭の多寡に関係なく政治家としての資格は勿論ない。私は、今回産経新聞に記載されていた小澤氏の宗教哲学に関して興味があったために、確認として動画を見させていただいたのだが、そのよう興味でもない限り、多くの方々は動画よりも文書を見るのではないだろうか。(私が古い人間なんでしょうかね。)さて文書には起こされていない小澤氏の宗教哲学に関して触れておきたいと思う。小澤氏は仏教哲学、東洋思想は「悠久なる自然の中の人類は一つの営み」という考え方であり西洋文明は「人間が万物の霊津王であり、征服すしていくことが可能である」とする考え方であると述べている。不二山人 「世界の夜明け」現今の人類は人智人覚が万能なりと錯覚しこの大宇宙すべてが実在する唯一にして全人類共通の大宇宙意志によって主宰されていることを忘却し、唯々有限なる人智人覚のみに依り頼み、対立と闘争に明け暮れているのである。」人智人覚以外はなにも認めない人智物質万能主義を批判した言葉であるが、これと軌を一にしているように思える。このあたりの指摘に関しては、小澤氏に対して、その後反論できなかった産経新聞記者の学識を私は疑う。このような質問をするならば、もっとそれは「物質万能主義」すなわち資本主義も共産主義も社民主義も批判する言葉であることを確認すべきではなかったか。このような記者がいるから表層的な議論になってしまうのである。「資本主義」も「共産主義」もこれは唯物論による思想体系である。このあたりの哲学を理解していると思われる小澤一郎氏の造形は深いものと私には感じられ、これらは無条件に高く評価すべきであろう。しかしながら、仏教に関しては、小澤氏は誤解している部分があるように思われる。仏教を言い表す言葉として「空」という考え方がある。「色即是空」「空即是色」の「空」である。その空とは「有でもなく、無でもない。また有でないのでもなく、無でなにのでもない。その上有と無以外の何物でもない」この禅問答そのものの概念から成り立つのである。これは、唯識論という唯物論のアンチテーゼとなる考え方である。これは縛られた価値観に囚われることなく、有、無を決定するのは人間という物体の識すなわち意志のみが決定するという考え方なのである。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を耳にしたこともあるだろうが、火は熱いという既成観念を取り除けば、あらゆる事象は別の面を見せるということであると私には感じられる。そこから人々の肉体や外界事物には本来善悪はなく、それらを善たらしめ、悪たらしめるものは悉く心である。という解釈が成り立つ。なぜこのような考え方が仏教のみに生じるのかといえばそれは自我(宗教用語でいえばアートマンとでも表現するのだろうか)を認めないからである。よって仏教においては「霊魂」というものすら認めてはいない。仏教関係者でテレビ番組などを通して「徐霊」などと称する行為を行うものも見受けるが、彼らはウソつきである。仏教そのものが霊魂を認めないのであるから、それを取り除くという行為そのものが成り立たないのである。キリスト教などでは「悪魔付き」などと称されるから、これらの行為は宗教上は十分に可能な考え方となる。また小澤一郎氏は「死んだらみな仏様になる」と表現されていたが、これは全く仏教を理解していない証拠である。仏教においては「因果応報」として罪ある者は「輪廻転生」するのである。罪なき者だけが成仏するのである。その輪廻転生するのが意志であるとされるところに、私は理解しえない摩訶不思議な理論が成り立っている。除夜の鐘を例に出して、煩悩を除いたものは「生き仏」とされるとも記者会見の中で述べていたが、それは即ち自我を完全に取り除くことでしかあり得ない。となれば小澤氏が述べていたように現在の世の中ではこのような人物(最初の例をブッダとする)は増えているのではないかとしていたが、個性尊重、個を大切にするという現在では、煩悩を除くことは困難であり、古に比べれば、逆にこれほど困難なことはないものであり、いないとすら言えるのではないだろか。知識が増えれば増えるほど、己に身に付いた価値観というものが重いウェートを占めていくであろう。となれば煩悩退散など不可能なのである。ここにおいて人間のエゴイズムというものが現在ではさらに重みを増していることに気が付かれるであろう。エゴイズムの投影として国家というものが存在する。つまりは完全なる生き仏と言われるような人間だけになれば、国家というものは必要がなくなる。しかし人間は万物の霊長でも何でもなく、自我を持っている(と感じられると表現すべきだろうか)となれば、国家がなくなることなど未来永劫無いと言わなければならないであろう。またエゴイズムの投影としての芸術などの文明・文化という側面を以て言及するならば、文明文化というものも、生き仏というものがすべてになれば、存在しないということになる。こう考えると、鳩山首相が掲げる「東アジア共同体」なる空想の世界はあくまでも空想の世界の中でしかないということもわかるのではないだろうか。人間が人間である限り、これは東洋思想からすれば成り立たないと簡単に結論できるものである。刹那に生じ、刹那に滅する世界これこそが仏教における哲学であり、不生不滅、不増不減を伴うものである。とここまで書くとまたまた理解不能になる。(どなたか宗教に詳しい方からのご教授をお願いしたいところである)仏教哲学からいえば、あらゆる価値観から解放されたときに人は自由になり、それが真の自由を意味することになる。しかしそれが可能になるとは私には思えないし、このような禅問答のものが普遍的価値を有するものとはならないように思える。私は、上記のような考え方に立てば、俗物そのものということになる。しかし国家を否定するような人間もまた別の価値観からそう考えているということであり、国家主義、地球市民的考え方それに優劣などというものはない。そして現在のような唯物論的考え方に支配されている限りにおいて、地球市民という考え方は誤りであるということは結論できると思う。西欧で発達したように見える地球市民的考え即ち社会民主主義というものは、キリスト教的観点から言えば、経済の身におけるものにすぎないことがこれでもわかるのである。このような突っ込んだ議論を私は望みたいと思うが、まあおそらく多くの方々は興味のない話であろう。しかしこれだけは言える。なぜ民主党の文書にはこのような宗教観に立った考え方が示されないのか。唯物論批判であったとしても、これらは文書として記載しておくべきであろう。民主党の文書は消毒されたものにすぎないのであれば、それは言葉が宣伝の道具の身に使われるということであり、それは政治とは呼ばない。何と呼ぶのか、プロパガンダと呼ぶのである。騙されてはならない。民主党は動画配信を以て透明化としたいのであろうが、動画は時間がかかる厄介な代物であり、内容よりも大きな声であるとか、居丈高な表現に面白い、面白くないという価値判断のみ強調されやすい。つまりは考える力をそぐものであると思う。このことを私は今日深く嘆きたいと思う。小澤氏の記者会見の模様は文書http://www.dpj.or.jp/news/?num=17276動画http://asx.pod.tv/dpj/free/2009/20091116ozawa_v300.asx改めてアクセスしていただければ見られます。私にも理解できないことが多く、内容が支離滅裂になったことをお詫びいたします。参考・引用小澤一郎公式ウェブサイト民主党HP文責 上田 和哉