【103】ポツダムのクリスマスとトニー君とアウガルテンのプラタナス
今年のクリスマスはベルリンの側のポツダムのホテルで過ごしました。プロイセン王のフリードリヒ大王が誇らしげに立っているドリントホテルです。部屋に入るとクリスマスのチョコレートやクッキーが歓迎してくれていました。ウヒヒ、こいつら喰われることをまだ知らんな。家を出る時に届いたゲオルクさんからの枕の様な小包も持って出ました。プレゼントを開けるのは25日です。この聖夜のビュッフェスタイルの豊富なお食事には美味しい栗のポタージュと焼いたガチョウがメインでした。パリパリした皮が美味しくて、そればかりお皿に載せましたが、いったい何羽のガチョウが焼かれたんだろう。デザートもクリスマス風。此処にもサンタさんが後で食べられるのを知らずに待っていました。25日・・・・・ゲオルクさんから届いた枕の中身は手作りのレープクーヘンのプラリネでした。ザッハートルテの様に味が濃くて食べ甲斐がありそうです・・・・濃いコーヒーに合いそう。さてこれは蓋を閉じて、ホテルがサンスーシー宮殿に近かったので久しぶりに行ってみました。観光シーズンではないのでお城は見学できませんが、人がいなくてゆったり気分で散歩します。その代わり小鳥の鳴き声も聞こえません。夏には人がごった返していて、これほどの展望は不可能です。その代わり緑も花木も立像も冬支度で味気は無いのですけれど。庭園内にある平和教会の側には大きなプラタナスの木が生えています。ゲオルクさんの小さな歌の19章「アウガルテンでの休み時間」にはこう書いてあります。「敷地内には3本の巨大なプラタナスの木がありました。これは間違いなく宮殿の建設初期に植樹されたものなので、つまり樹齢が200年程で、その樹木の間にはサッカー場があり、平らな緑草地の向こうには「老人の家」などと面白半分に呼ばれている変声組の寄宿舎がありました」映画の「青きドナウ」で少年達がサッカーで遊んでいましたが、私の憧れたこんもりした緑はきっとそのプラタナスだったのですね。アウガルテン宮殿を訪ねた時、裏庭には出なかったのでそのプラタナスの木の事はわかりませんでしたが、きっとその中の一本がこれでしょうね。右の芝生ににタンポポが咲いているこの写真は葉が出始める春なのでまだ枝がスカスカになっているのでしょう。そうそう、1957年の野ばらではこんな画面もありました。手前にあるのがプラタナスですね。もっと古い動画「歌の翼に」(←クリック)と言う教育映画ではこんな場面もありました。1971年の時もバルコニーに出て桜の木を見ましたが、緊張していたのであんな風だったのか覚えていません。それにしてもポツダムのこの木はそれよりも50年程古いかと思われます。私が住んでいた鎌田の街の道路にもプラタナスが生えていました。でも最後に里帰りした時はそんなものは一本もありませんでした。今はもう全く知らない街になっています。そうそう、私が気になっていた「野ばら」のしだれ柳の木の事をゲオルクさんはアウガルテンパレスの庭には無いと言っていましたが、ギュニーさんは変声組の宿舎の横にあると言っていました。映画の野ばらに出ていたので、覚えていたそうです。グーグルマップで見るとアウガルテン陶磁博物館の壁際の木がそうでありそうな・・。どうでもいい事なのですがね。昔見学した時の古いサンスーシー宮殿には余りロマンを感じなかったのですが、老年になってみると、この朽ちた風景にどこか自分と似たものを感じます。此処の大きな庭園ではまだ行ったことのなかったネプチューンの洞窟がありました。そこに行って撮って来た写真は4歳の可愛い坊やでした。こういう歳の子供を見ると、息子達の幼かった頃を懐かしく思います。何で子供ってあんなに早く成長してしまうのでしょう。・・・・と思うのはこの歳になってからなのですがね。クリスマス市は終わっていましたが、オランダ通りには観光客の為に幾つかの小屋が開いていて、グリューワインの甘い香りが漂っていました。この近くには他にも二つのクリスマス市が開かれていましたが、2018年にファン友さん達が演奏旅行中のモーコアをニコライ福音教会に聞きに来た時にはどこの市のグリューワインを飲んだのかしらん。ニコライ教会ではないけれど聖ペーターとパウル・カトリック教会でミサが行われていました。ウィーン少年合唱団はカトリックなのに、ポツダムではいつも福音のニコライ教会でコンサートをしているのですよ。ま、ニコライ教会の方が暖房の入った舞台はあるしポツダムの駅に近いからなのでしょうね。私達はこの後、喫茶店を求めてオランダ街に入り込みました。ホテルの玄関にあったフリードリヒ大王のお父さんで軍人王として知られるフリードリヒ1世はオランダ好みで、オランダから職人を集めようとして、彼等をおびき寄せるためにこんなオランダ風の街を作らせました。1733年のお話ですからね。けれどオランダ人は思った意外には集まらなくて、結局フランスやプロイセンの商人や芸術家が住んだそうです。小さな喫茶店を見つけて美味しいコーヒーで体を温めました。プップクンのサウナの時間が少なくならないように帰り道に付きましたが、途中でこんな素敵な共同住宅に出逢いました。ポツダムだからこそ、こんな場所があるのかもしれません。今日の夕食のメインは鹿料理でしたが、どうもシビエは苦手なのでもっぱらサラダとデザートを頂きました。クリスマスの前にランク隊のトニー・リュトゲン君の歌声がオーストリアのラジオで聴けるのではないかとものすごい期待をしていましたが、プロブラムを調べてくれたブロ友さんのメールには「ORF oe1、先ほど番組内容を確認しましたが、ちょっと期待していたのとは違いました。各放送局で職員の世代交代があって変わったのかもしれませんね」と言う通り、それらしきものはありませんでした。是非聞きたかった歌声が聞かれぬまま時間が過ぎて行きました。翌日は帰りがてらに新宮殿とバーベルスベルク宮殿に寄って来ました。さようなら、ドリントホテルよ。美味しいお食事をありがとさんでした。新宮殿に行くまでの道にもまだ観光場所は幾つもあります。これはお城の直ぐ近くに建っていた風車で王様がうるさいから取り壊す、と喚いていましたが農夫が一歩も譲らなかったので今でも残っています。フリードリヒ大王の優しい面ですかね。プーチンだったらこうは行くまいだろうに。この先には温室があって、お城には大抵暖かい東方の植物を冬に保管させておくための大規模な建設物があります。ポツダムのお城を見学するには1日はたっぷり掛かりますよ。私が一番見たかったのは新宮殿でした。この手前の建物は凱旋門ですが今は教育大学に使われています。その先に見えるのが新宮殿ですが、私が初めてこの門を見た時は修復されていなかった時だったので、それは酷い有様でした。フリードリヒ大王は自分はサンスーシー宮殿に住んで音楽三昧をしていましたが、無理強いされて結婚した王妃やウザいお客はあの向こうに見える新宮殿に送りこんでいました。この凱旋門の左右の建築物が教育大学になっているのですが、この周り階段が素晴らしくロマンティックなんですよね。こんな写真を撮れるのは観光客の少ない冬しかないかもしれません。新宮殿に近づいたら、初めて日本の観光客のご夫婦に出逢いました。此処には数えきれないくらいの像が並んでいます。私の好きなドラゴンちゃんの花瓶までありましたが、酸性雨で真っ黒。早く修正して綺麗にしてもらいたいです。そしてこの後はバーベルスベルク宮殿に向かいます。ポツダムを離れる時に、ニコライ教会が見えました。ハンブルグのファン友さんから此処でウィーン少年合唱団のコンサートを一緒に聞こうと誘われているのですが、どうもポツダムの冬の寒さと暗さに怖気付いて腰が上がりません。実はベルリンの壁の崩壊の後、この教会に行った時にその寒さに凍えそうになった経験があったのでした。それも忘れられないのですが、どうやら私の現役合唱団のファン活動は大切なファン友達を失った後、終わりになったみたいです。ハーベル川沿いにあるモスクが目に付きます。でもこれは本当のモスクではないのですが、説明は後ほど。バーベルスベルク市で無料の駐車場が丘の上の大学の寮の側にありました。勿論、この学生寮はドイツ統一後の勝利の建築物です。本当は外部の車は駐車禁止なのですが、今はクリスマスで皆実家に帰っているようで少しの間、無断で置かせてもらいました。しかしこの旧東ドイツのそこからの自由の街の西ベルリンへの眺めは素敵で、向こうに見えるのは狩りの城グリーニッケ。そのお城の中世期の時代と今の姿を調べてみました。長い間ベルリンに住んでいながら、実は私はまだ、そこを訪ねたことはありません。丘の上からははるか向こうにベルリンとポツダムを繋ぐグリーニッケ橋が見えます。ベルリンの壁の出来た1962年にこの橋でソ連と米国のスパイ交換があったのです。私はトム・ハンクス主演の「ブリッジ・オブ・スパイ」の映画を観てひどく感動しましたが、ベルリンの歴史を改めて見直しこの街に更に惹きつけられたものです。この手前にあるのは蒸気ポンプの建物です。昔は水際にポンプを設置してお城の噴水の水を吹き上げさせていたんですね。その上、サンスーシー宮殿では丘の上にわざわざ廃墟に似せた水溜を作って、その水の流れの力で噴水を作動させたそうです。それがうまく行かなくてオランダから技師を招いてポンプを作らせたそうですが、それもうまくゆかなくて結局ハーベル川の側にモスクに似せた蒸気機関のポンプを設置して噴水をさせたそうな。さっきのモスクの写真がそれだったわけ。今の時代の何と楽な事よ。さて、バーベルスベルクのお城です。うひゃ! 今とそれほど違くないですね。此処もきっとドイツ統一後に復興されたのだと思います。サンスーシー宮殿の像を見たら、これは絶対に修復された像ですね。どさくさに紛れてこんな(恐らくは)モダン芸術まで置かれていました。なんだかんだ雑用に追われているうちに新年が来てしまいます。まだ16時なのに表では爆竹の音がしています。しかし日本はもう2024年ですね。こっちはまだ8時間あります。私はこれから美味しかった栗のスープと年越しそばの用意をします。しかし先ず日本のブロ友さん達に新年のご挨拶を。しかし、しかし・・・録音がオルガンだけの伴奏だったというトニー君の歌声がラジオで聞けなかった代わりに、ついにそうではないかと思われる「きよしこの夜」の動画を見つけたのです。そして昨夜、トニー君に聞いてくれたゲオルクさんから 大当たりでした!と言うお返事が来たのですブロ友さん達よ!トニー君の歌うウィーン少年合唱団の往年の名唱(←クリック)を聞いてください。このカラフルなシャツの少年がトニー君です。 きよしこの夜きよしこの夜 この二つも同じですが下のは雑音があります。(2024年1月22日:Yuichannさんからのコメントで、はっと気が付いたことがありました。ゲオルクさんの本にはトニー君は第二ソプラノで第一ソプラノはハンス・ピヒラー君と書いてありましたよ。するとこのソプラノはこのヨハン君じゃないですか??この子は他のレコードでもソロを沢山歌っていましたからね~。ブロ友さん達よ、2024年こそは世界に再び平和が戻ることを願いましょう‼2024年1月3日何というこっちゃ!新年早々、日本には大きな災害がやって来た。1月1日:羽田空港1月2日:能登半島地震1月3日:北九州市新年から3日間、このようにネットのニュースばかり見ていました。2024年1月7日:ゲオルクさんから頂いたレープクーヘンは本来プンシュクラプフェンというオーストリアのピンク色のサイコロの様なミニケーキのチョコレート判なのでした。写真はネットから借りて来たオーストリアのプンシュクラプフェンですが、この名前も「小さな歌」の本で初めて知りました。スポンジケーキの間にラム酒の入ったジャムとナッツのヌガーが入っていて、何しろ甘いのです。