【64】ウッソォ~みたいなナホトカ航路------ウィーンへの第一歩
2022年12月16日 金曜日プップクンが「水槽が破裂して水がなくなったそうだよ。」と朝食の時に言いました。いつものごとく何のことだかわからない。詳しく聞くと、今日の明け方にベルリンドームの横にあるラディソンブルホテルのアクアリウムが破裂して大変なことになっているそうでした。私達も見に行ったことのある、ヨーロッパで一番大きな水槽で、中の1500匹の美しい魚たちはすべて死んでしまったとニュースに出ていました。それが一番気に掛かっていたことで、衝撃を受けました。何でもいいから水を入れて一匹でも助けられなかったのかしら!午後に動画が入ったので、貼り付けておきましょう。来年はロシア軍がウクライナに、また大規模な攻撃を仕掛ける準備をしているというニュースで腹が煮えくり返っていたので、今朝のニュースはたんこぶに蜂のような気分です。ということで方向転換して、これから愉快だった前のブログの引っ越しに掛かることにしますね。 (初公開2013年6月22日ー再編集2022年12月)うそ、うそ、うそ、もう、これってウッソォ~ 私は1971年にこの船で横浜からヨーロッパへ向けて出港したんですよ~😱それで、この記事を書くために今(2013年)必死でグッグったら ”タンカーのナホトカ号の沈没(1997)” ですって・・・・ ひぇ~、私の乗って行った船が沈んでた 😨 この写真、ほんとうに泡立てて半分なくなってるよ ←プップクンもびっくり へ~、私って、タンカーに乗って海を渡ってたんですね。←ええっ?ぜ~んぜん気が付きませんでした ←まだ気が付かないアホ------と、もうぎゃぁぎゃぁ あせってネットでバチバチ調べ直したら、私が乗ったのは油臭いタンカーじゃなくて白い貨客船でした。←やはりバカ あ~、びっくりした。どうりで沈んでいる船の色が違うと思った。ソ連のナホトカの港に着くからナホトカ号だったかのと思っちゃいました。←いい加減な記憶が証明されただけです。 さて、それではいよいよ1971年5月2日に横浜港から出港した、この(ナホトカ号じゃなくて)バイカル号での旅の始まりです。「青きドナウ」の映画を見てから、この日の来るのを待っていたのじゃ~ 見送りの人々よ、しばしの間、さらばじゃ 。ここには友人達(ウィ―ンファンも含めて)や親族が写っています。大した大型でもないこの定期船は ボーッと 淋しそうな汽笛と共に港を離れると、船客と見送人がしっかりと繋がれていたテープを容赦なくビチッビチッとぶっ切り、ユラ-リユラリと横揺れしながらゆっくりと進み始めました。 若さゆえに興奮した私も、皆に混じって手すりから身を乗り出して、次第に視界から去りゆく人々に手足(これは余計です)を振ります。何本ものテープが波にゆれながら、凧のしっぽのように船にくっついています。視線を下に向けて、海に浮かんだそのゆらゆらとくっついて揺れるテープを見ているうちに、感覚が少し変になってきました。空は青く、甲板は塗ったばかりの白いペンキが明るく目にしみます。そしてその白いペンキは目にしみるばかりでなく次第に鼻にもついてきました。 ペンキの匂いがァ~~~ 胸糞が悪いとは正にこの事で、酔ったかな と思ったとたんに軽い吐き気がして、どこか揺れていない場所が無いか、もう夢中であちこち駆け回りました。 どこが揺れていないかって、 どこに行っても揺れているんです 麗しの白いペンキの匂いからも、大きなゆったりとした揺れからも、この船には逃げ場が全くありませんでした 苦し紛れで最後にやったのは、まだだぁれも来ていない船の一番高い所を見つけて、そこに大の字にひっくり返る事。大成功 ゆらりゆらりと揺れてもそこまではペンキの匂いは届かなかったし、都会のスモッグから遠く離れた青空と雲がそれは素晴らしく美しく見えました。 もちろん、私を懸命に探していた友人Yは、船の煙突に近い甲板に、大の字にひっくり返っていた私を見つけて100mぐらいブッ飛ばしてやる、の気配でした。そりゃ、わかるけどさぁ、こっちはもう、吐き気で必死だったんだからァ、ゆるして~。 思うに、船では船酔いするという先入観があって、船酔いしないと違反するような気がして、素直に気分が悪くなったんでしょうね。でも、乗ったとたんに船酔い気分になるなんて、船上の体験でしょ。かっこいいじゃん!←救いようのないバカ 船のレストランでは銘々に座るテーブルが割り当てられていました。なんだかあんまり贅沢な様子のレストランではなかったような記憶です。私たちといっしょのテーブルには、やぼったい黄土色のブルゾンを着た痩せた日本青年がいました。 彼は小さな手提げカバンと「地球の歩き方」一冊だけの身支度で、自分はすべてのユースホステルを訪ねて間違った情報を訂正に行くのだと赤鉛筆を指でくるくる回しながらかなり意気込んでいましたっけ。驚いた事に、この青年とは半年後の帰路で偶然同じ船に乗り合わせましたが、「地球の歩き方」の成果を聞くと、もっと驚いた事に、パスポート以外はスペインで一切合財すっかり盗まれ、日本レストランで闇で働いていたと言う事でした。 船での夕食には何が出たのかまったく思い出せません。なにしろ、私は美味しくなかった料理は全然覚えていない人なのです。あ、ただぜ~んぜん美味しくなかった事だけは覚えていますよ。 全くの偶然で、この船には日本公演から帰国するブルガリアの男性合唱団も一緒でした。でも少年合唱団しか知らなかった私達には興味なしの合唱団です。夕食後は彼らによるコンサートが行われました。テレビで見た事のあるドンコザック合唱団のような力強い合唱で感激しましが、ただでこんな素敵なコンサートが聞けるなんて私達って運がよかったのですね。でも、ウィ―ン少年合唱団だったら、もっと嬉しくて口から泡を吹いてひっくり返っていたかも。 コンサートが終わってしばらくすると、 それはとつぜんやって来ました 私はあわてて席を立つと、辺り構わずまっしぐらに夜のにデッキに突進しました。新鮮な空気と冷たい風がどうしても私に会いたいと連絡して来たからです。”100mぶっ飛ばし” の友Yはウッソォ~みたいにピンピンしていて、デッキにもたれる瀕死状態の私を指さして大笑いしながら言いました。「ポン子ったら、太平洋にゲロ吐いた」 ですって。めっそうもない。私はただ、寛大にも自分が食べたすべての物をお魚さんの餌にあげただけです。船室は二段ベットで4人用の狭いキャビネットでした。あまり印象に残っていないのですが、ベットが狭くて寝心地も悪かったですよ。その夜はもう寝なくちゃ、寝なくちゃとばかりあせって一睡も出来ませんでした。けれどいつの間にか寝込んでいたんですね。 起きた時はウソの様に気分爽快で、広大な海からの冷たい風を忘れません。その日は殆ど一日中、日本の若者たちはブルガリアの愉快なおじさんたちとふざけ合っていました。団員の多くの方がドイツ語が出来て、ソフィアに来るのならぜひ寄って下さいと幾つかのアドレスをくれたのですが、後で読んでも読めず、誰が誰だかもわからず、ブルガリアには絶対に行く気はなかったので、すべて失くしてしまいました。 夜になると皆でデッキに並んで、ゆらゆら揺れる狐の嫁入りの様な灯りの、遠くのイカ釣り船に大声で呼びかけ、答えが戻らなくとも満喫していました。 津軽海峡を抜ける時は揺れると聞き、覚悟してデッキにへばりついていましたが、船は日本の大陸の間を案外順調に進んでくれました。そして期待したほど本州も北海道もくっつていませんでした。(バカか、おい) バイカル号が付いた港はチーキエンスカヤ(Tihookeanskaya)という名で、そのみすぼらしい環境にあきれて、もうウッソォ~、の繰り返し。これが国際港なのかと、驚くばかりでした。 この港からナホトカ行きのバスに似り込む時、大柄なセーラー服のソビエト海兵隊員が二人、私達の目の前を通り過ぎ、それを目にしたとたん、二人で 「ウゲ―ッ、ひねたウィーン少年合唱団員だ。」 などと吹き出して、日本語の出来るソ連の案内人に 「なんで笑いますか」 と聞かれても、どう説明して良いのか判らず返答に困りました。失礼かと思い、笑うのをこらえていましたが、さっきの海兵隊員が戻って来るとこらえきれずにまた吹き出してしまい、また 「なんで笑いますか」 と聞かれ、返答に困って何も言えなかったので、それ以後、かなり厳しい視線でナホトカに着くまで監視されてしまいました。それにしても若い娘が自由に笑う事もできないとは、なんとユーモアのない国の人達ですねぇ。 バスがナホトカに着くと、ハバロフスク行きの列車の駅に向かいます。その前にトイレがどこか聞こうと、近くに銃を脇にして直立不動で立っていた、ものすごく図体の大きな兵士に気軽にホイホイと近寄って行きました。すると私が近づくのを見た彼はとたんに青くなり、目を向いて「ニェット、二ェット」と小声で言いながら、小刻みに首を横に振って後ずさりするのです。見ると体が震えていて、完全に私達と接する事が恐怖の様子でした。←そりゃ、彼に同感「小狸に怯える大柄なロシア兵の図」なんていうのは日本では笑いの種です。でも、そこでは一歩間違えば監獄行きという、想像を越える規律の厳しさが存在していたのですね。彼らは自由な資本主義の国から来た私達との接触を、固く禁じられているのかもしれないと、いくら能天気な私でもそれは充分に察知できました。 おおよその事情は分かったものの、実際にそれを見て、遺憾な思いを抱いて夕方のハバロフスク駅から、モスクワへと向かう寝台列車に乗り込みました。 それは遠い異国の地で、平和で自由な日本国民人である事を自覚し、日本人である事に心から感謝した最初の一歩でした。 気持玉数 : 5 この記事へのコメント 長老純爺 2013年06月26日 12:50手元に残る67年発行の旅行案内書では、ソ連船でナホトカ経由でウィーンに行く場合の料金は、アコモデーションの等級により片道117,050円から155,500円の4段階にわかれている、とあります。当時高校生の私がバイトした時の日給(時給ではありません)が900円の時代です。渡欧を決意した熱意と努力に頭が上がりません。さすがPONKOさん、お見送りの万歳!を三唱します…。 ponko310 2013年06月26日 16:44うわぁ、67年発行の旅行案内書ですか。良くお持ちでいらっしゃる。羨ましい。私も旅行だけが目的で懸命に貯金ですよ。銀行での勤務でしたが今から考えるとスズメの涙程のお給料でしたね。ドイツ語圏の色々な合唱団が来日してはコンサートの券を買うのが痛かったです。 YUKARI 2013年12月13日 01:00ゆらゆら揺れる船に、ペンキの匂い、、。乗り物酔いの激しい私はサラっと読んでおかないと、ponkoさんとおなじ結果になりそうです。一生懸命働いてコンサートチケットを買って聞きに行くponkoさんは、誰よりも楽しかったはずですよね。 ponko310 2013年12月13日 01:13YUKARIさん毎回コメントを有難う。あなたは乗り物酔いをするのですね。今は薬があって楽になっているそうですから、ヨットにも乗れますよ。この旅行は私の人生のクライマックスでした ek 2017年10月18日 16:37Ponko様無性にこの記事が懐かしくなってお邪魔してしまいました。Ponkoさんが私達より三年前の同じ時期、同じバイカル号で横浜港をヨーロッパに向けて出航なさった様子を思い浮かべて新たに感動してしまいました。Ponkoさん達はブルガリアの合唱団。私達はソ連の合唱団。あの頃は東ヨーロッパからの合唱団来日にこの航路が重要な役割をしてくれていたのですね。Ponkoさん達の旅はポーランドに向かっていたのですね。大好きなポーランドの合唱団もこの航路でした。来日前に先生から頂いた手紙に「日本の第一歩は横浜からです。素晴らしい歌声を届けます。待っていてください。最後の一歩も横浜です。帰国時に貴女から演奏会を楽しんだと聞けるよう準備をしています。」と手紙を受け取った事を思い出しました。ハバロフスクからモスクワへの鉄道の旅は大変だった事でしょう。私達は幸いソ連国内線のプロペラ機でしたが(笑)。そうそう、バイカル号の船内で最初にお話した外国の方は同室になった女性。そしてその方の同行者がドイツ人のお医者様。お名前がなんとWolfgangさんでした。 ponko310 2017年10月19日 05:11ekさんこの記事にコメントを入れてくれて本当にありがとう。私も久しぶりに読んで懐かしさを楽しみました。私の他にも同じ道を辿ってウィーンに行ったファンの方は何人もいられるんでしょうね。きっとその中にはekさんのようにこの記事を読んで下さったオールドの方もいらっしゃるかもしれません。ポーランド大少年合唱団がこの航路で来た事は後から知りました。何しろドイツ語圏以外は全く興味が無かったのですから。でも、その後ポーランドの方々を知って、ロマンテックなメンタリティーを持っていることに胸を突かれたものです。国民性ってあるんですよね~。ekさんがウィーンに着く前にヴォルフガングさんと言う名の方に会っていたと知って、どんなに落ち着かなかったことだろうと想像します。今となっては複雑な気持ですけれどね。💕 お詫び:コメントを入れる時、何度も数字の打ち直しを要求されるのですが、スパム予防の為だと思います。貴方の失敗ではないのでどうぞお気を悪くなさいませんように。それでもコメントをくださる方にはここから感謝したします。