『あゝ野麦峠』山本茂美(角川文庫)
あとがきの日付が昭和43年8月13日なので、この作品は今から37年前の書かれています。この本は、副題にあるように、「ある製糸女工哀史」を書かれています。著者は1917年長野県松本市生まれの方で、平成10年3月27日永眠されているそうです。私は知りませんでしたが、『あゝ野麦峠』は映画化されているとのこと。試みに1979年の映画のあらすじを見てみましたが、原作とは異なり、「哀史」の部分に重点をおいて創られているように思いました。原作は女工たちを雇った資本家側についても立ち入った調査を行ない、製糸工場を経営する立場からも書かれています。すなわち製糸工場が成り立つためには、3本柱のどれかが狂っても駄目だと。詳しくは書きませんが、その3本柱は、糸相場・原料繭購入・工女確保です。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】最近企業間の国際競争が日増しに激化するに及んで、この傾向はますます強くなっているが、実はそれは昔も同じで、ただ戦前は、生糸と綿糸紡績以外は日本商品で国際競争に加わっていたものは他にはほとんどなかったから、今まで気付かなかっただけのことである。【征野の感想】たとえば大正8年のわが国の生糸生産額は世界生産の52%、輸出では日本輸出総額の3分の1を占めていたそうです。当然ながら、生産額では世界一。ここまで大きくなるまでには並大抵のことではなかったと想像できます。戦前も国際競争で勝とうとする企業家魂があったのですね。【この本からの引用】明治から大正にかけて製糸工場に働いたこれらの工女はだいたい次の型に分けることができる。【征野の感想】その型とは、優等工女・普通工女・不適格者・病弱型脱落者・情緒的脱落者・企業戦犠牲者の6つ。何やらすごい分類ですが、少し考えれば分りますが、やはり工場で働くには向き不向きがあったとのこと。現在のように適性がないとわかっていれば、最初から工場で働かなければいいのですが、当時はそういう状況ではなかった。口べらしになればという理由で娘を製糸工場に預けるケースも多いし、工女不足は深刻でとにかく人手が欲しいという時代だったようです。ここに「哀史」が生まれる必然性があります。上記の不適格者とは、「体はいたって丈夫で、無理は平気であるが、生まれついての無器用さ、どだい糸のひける人ではない」と著者はいう。もちろん、不適格者といっても、ほとんどは死に物狂いの努力により普通工女になっていくそうです。それなら退社すればいいではないかということになるが、これがまた難しい。なぜなら、契約時に前借金を親が受け取って契約年数を決めていたからです。一例ですが、実際に製糸工場で働いた経験がある方は次のように話されています。「ワシは前借300円、7年契約で山一製糸へ行った。金額はいわなかったが、お前の働くことで金を借りた、辛抱してや、とトトマ(父)とカカマ(母)にその晩いわれた」現在日本の資本家と労働者の関係と比べると、隔世の感がありますね。