週刊 読書案内 リービ・英雄「英語でよむ万葉集」(岩波新書)
リービ・英雄「英語でよむ万葉集」(岩波新書) 2022年の秋からでしょうか、リービ英雄という小説家に惹かれています。「天路」(講談社)という最新作を読んだことが始まりですが、「模範郷」(集英社文庫)、「天安門」(講談社文芸文庫)と読み継ぎながら、彼の本業(?)に興味をひかれて手に取ったのがこの本でした。 彼は、本名をIan Hideo Levyというそうで、アメリカのカリフォルニア州、バークレー生まれのユダヤ系アメリカ人だそうです。プリンストン大学を出て、とかスタンフォードとかで先生をしていたらしい秀才なのですが、1982年、万葉集の英訳で全米図書賞を受賞したというのですから、折り紙付きの万葉学者といっていいでしょうね。その彼の万葉集の英訳業のダイジェスト版が「英語で読む万葉集」(岩波新書)といっていいと思います。 ちょうど、季節が合うのでこのページを引用します。梅花の歌三十二首よりわが園に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも 主人(あるじ) 私の庭に梅の花が散る。それともはるかな遠い天空から、雪が流れて来ているのだろうか。(大伴旅人、巻5・八二二)fromThirty-two poems on plum blossomsPlum blossoms falland scatter in garden;is this snow come streamingfrom the distant heavens ?By the host,Otomo Tabito(P68~P69) 見開き2ページを使って、万葉集の和歌、現代語訳が右ページ、その歌のリービ・英雄による英訳が左のページです。日本語の和歌はもちろん縦書き、英訳は横書きで、余白の多い装丁です。 じつは、この手の英訳本は他にもありますが、この本の真骨頂は、次に開いた2ページにあります。 大陸との交流の接点である大宰府の、輸入されたばかりの大陸文化に通じて文才もある「帥老(そちらう)」、大伴旅人の、「宅(いへ)に萃(あつ)まり宴会を申(の)ぶ」。その日は「天平二年正月十三日」。漢文の序は、「初春の令月、気淑(うるは)しく風和らぐ。梅は鏡前の粉に被(ひら)き、・・・・」The air was clear,the wind was soft.The plum blossoms opened like a spray of powder before a dressing mirror・・・と中国大陸から輸入された言語で日本人が書いた散文を、アメリカ大陸の言語に翻訳していると、言語の輸入が真っ盛りであった島国文化の位置が、かえって強く印象づけられてしまう。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古今それ何ぞ異ならむ。In Chinese poetory are recorded works on the falling plum blossoms. What difference between ancient and modern times?つまり「古」の、向こうの言語で書かれたテーマを、「今」においてはこちらの、島国の言語で詠もうじゃないか、と漢文の序が結び、それから日本語の「梅花の歌」が三十二首、開く。はじめてそんな試みを日本語でなそうとする宮廷人たちは、ある種のの実験に心浮き立っていたのだろうか、一首ごとに新鮮さが漂い、文学の新しい領域が切り開かれてゆく気概が、不思議と二十一世紀の、もう一つの大陸のことばにも伝わる。 “By Lord Ki,Vice-Commander of the Dazaifu”“By Yamanoue Okura,Governor of Chikuzen”“Fujii Onari,Governor of Chikugo”と一人ひとりの歌人の名前を記しながら、宴会という共同創作の場で次つぎと詠まれる歌を英訳していると、またかまたかという興奮を、千三百年経って、共有する。そして「主人(あるじ)」という作者記を、By the host,Otomo Tabitoと書き、その一首に特に目をひかれる。Is this snouw come streamingfrom the disutant heavens?という質問で終わる歌の中に、風景を詠じただけでなく、自然現象に対する一つの問いかけを試みた、主観の意識が現れてくる「かも」という、問う意識のしるしが、クエスチョン・マークになる。 自然に対する質問は、十何世紀が経っても、さらにもう一つの言語で聞かれても、答えはない。(P70~P71) なんだか長々しい引用で、読みづらかったと思いますが、いかがでしょうか。和歌の英訳が、日本語だけで解釈している私たちの理解に揺さぶりをかけるということは当たり前です。しかし、リービ英雄が はじめてそんな試みを日本語でなそうとする宮廷人たちは、ある種のの実験に心浮き立っていたのだろうか、一首ごとに新鮮さが漂い、文学の新しい領域が切り開かれてゆく気概が、不思議と二十一世紀の、もう一つの大陸のことばにも伝わる。 と、書いているのを読むとき、ぼく自身の万葉の和歌に対する読みの浅さを思い知るとともに、万葉集という和歌集に対する心躍る面白さが新たに広がって来るような興奮を実感します。 加えていえば、彼が日本語で書き続けている小説群の中には、複数の言語の音に対して反応する独特の自己描写が、作品の重要なモチーフの結果としてあるとぼくは思っているのですが、その描写の奥にある作者の意図、あるいは、モチーフにたいする、ぼくにとっての謎を解くヒントもここには記されているのではないかという、興奮も一緒に味わっています。 この二首あとにあったのがこの歌でした。天の海 雲の波立ち 月の船、星の林に 漕ぎ隠るみゆ 言わずと知れた柿本人麿の名歌ですが、英訳はこうです。On the sea of heaventhe waves of cloud rise,and I can seethe moon ship disappearingas it is rewed into forest of stars. いかがでしょうか、翻訳にあたってのリービ・英雄の語りは、本書をお探しいただき、直接お読みいただきたいと思います。 某所での、5分か10分のお時間に、1首、お読みいただける作りになっていて、とても具合がいいと思います。久しぶりに、万葉集など、いかがでしょうか。