週刊 読書案内 新井高子 編「東北おんば訳石川啄木のうた」(未来社)
新井高子 編「東北おんば訳 石川啄木のうた」(未来社) 石川啄木が岩手県の出身の歌人であることはよく知られていますが、彼の短歌は「標準語」、あるいは、おそらく、当時、標準的であったのであろう「歌語」で書かれています。 啄木が使う言葉が「標準」的な「日本語」として、実際に彼が生きた時代に使われていた「口語」であったのかどうか、そのあたりにも面白いことがありそうですが、この本は、2011年の東北震災の後、大船渡という港町の仮設住宅に暮らしていた「おんば」たちが、その石川啄木の短歌を東北弁で「訳す」という試みです。 啄木が生きていれば、この試みをどう思うのか、喜ぶのでしょうかね。「東京」へ行きたかった啄木。停車場で故郷のなまりを聞いて泣いたに違いない啄木。春になれば、北上川の岸辺を思い浮かべていた啄木。 いろんな姿を思い浮かべながら、想像すると、やっぱり、泣きそうな気がしますね。いろんな意味で。 有名な短歌の「おんば訳」をここに引用してみます。訳なので、歌の調子は変わってしまっていますが、ちょっと読んでみてください。おだってで おっかあおぶったっけァあんまり軽くてなげできて三足もあるげねがァがったぁたはむれに母を背負いてそのあまり軽ろきに泣きて三歩あゆまず(「三足」は「みあし」・「おだづ」は「戯れる」、「ふざける」の意。)とっどきでも着て旅しでァなぁこどしも思いながら過ぎだどもなぁあたらしき背広など着て旅をせむしかく今年も思ひ過ぎたる(「とっどき」は「とっておき」、「こどし」は「今年」の意。)稼せぇでも稼せぇでも なんぼ稼せぇでもらぐになんねァじィっと 手っこ見っぺはたらけどはたらけど猶わがくらし楽にならざりぢつと手を見る友だぢが おらよりえらぐめえる日ァ、花っこ買って来てががぁどはなしっこ友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ猫の耳っこ引っぱって、ネァッと啼げば、たんまげでよろごぶわらすのつさっこ。ねこのみみを引っぱりてみてにやと啼けば、びっくりして喜ぶ子供の顔かな。(「わらす」は「子ども」・「つさっこ」は「顔」の意) 仮設住宅で、交互に口語訳して笑いあっているオバさんたちの顔が浮かびます。ぼくは「稼せぇでも稼せぇでも」とか、「ががぁどはなしっこ」なんていう言い回しが気に入りました。言葉に「勢い」がありますね。まあ、そうなると、もう啄木じゃないような気もしますが、それはそれで、ということでしょうね。 最後のネコの歌は、「おんば」たちが「しあわせな子供の情景」を思い浮かべていらっしゃる様子が、「わらすのつさっこ」という「ことば」に響いていて、とてもいいなと思いました。 おもしろがりたい方は、是非、一度手に取ってみてください。にほんブログ村にほんブログ村