アレクサンドレ・コベリゼ「ジョージア 白い橋のカフェで逢いましょう」元町映画館no171
アレクサンドレ・コベリゼ「ジョージア 白い橋のカフェで逢いましょう」元町映画館 アレクサンドレ・コベリゼというジョージア出身の新しい監督の「ジョージア 白い橋のカフェで逢いましょう」という作品を観ました。若い監督の習作という印象を持ちました。 お互い、見ず知らずの男と女が、一日に三度出会うという偶然の結果、「白い橋のカフェで逢いましょう」という約束を交わしながら、なんと、翌日の朝、そのお二人が、揃いも揃って、昨日までの「顔」を失ってしまうという、まあ、いってしまえば無茶苦茶なストーリーで映画は始まります。悪魔だか魔女だかの祟りなんだそうです(笑)。 アイデアはまことに面白いのですが、ナレーションで説明しないと何が起こっているのか、まあ、わからないことが難点でした。無理やりですね、あなた(笑)。映画学校の先生に叱られません? 外国映画のの場合は特にそうなのですが、登場人物の顔認証があやふやな老人は、やっぱり、そう呟きたくなる展開なのですが、不思議なことにそんなに白けてしまうわけでもありませんでした。顔を失った二人がどう出会い直すのかというわけですが、実はこの映画で引き付けられたのは、そのストーリー展開ではありませんでした。 映画の始まりのシーンは、なにか意図でもあるのか、カメラが地面をジーッと意味ありげに映し続け、徐々に引いていってまわりの世界に戻ってくるというニュアンスなのですが、その世界というのが、多分、小学校の校門の登校風景でした。子供たちが、三々五々学校にやってくる様子が、かなり延々と映し出されます。 その後、再び地面に戻って、主人公の女性が落とした書籍を男性が拾って手渡すというシーンで、物語の始まりというわけでしたが、その後、顔を失った二人の出会いというメインストーリーとは、ほぼ、関係のない、サッカーをして遊んだり、服を脱いでポチャポチャの可愛いハダカになって走り回ったり、という子供たちのシーンが、繰り返し挿入されるのですが、なんというか、これがスゴイ!のでした。 音もセリフもほとんどありません。だからといって、主人公二人の回想というわけでもなさそうです。彼ら二人のまわりの世界でのエピソードにすぎないのです。なんなんだこれは! と、もう一度つぶやき直しながら、ボクは、そのシーンに、理由は分からないのですが堪能してしまったのです。 見終えて、何度考え直しても、この子供たちの遊びのシーンとメインのストーリーはどうしても結びつきません。確かに、二人が二人であることを再発見する、いわゆる「オチ」は用意されています。しかし、この、若い監督の才能は、意味の分からないまま、映画のほぼ三分の一を占拠している、この子供たちのシーンに輝いていました。 まあ、あのイオセリアーニの故郷ジョージアの若者のすることですから、という納得もあったかもしれませんが、この監督、そのうち、きっと(?)、今度は〇! まあ、そういう作品を撮りそうですよ。それまでノンビリ待ちましょうね(笑)。 センスの塊のような監督ですが、物語には興味がないようなのは、ジョージアという土地の空気なのでしょうかねえ。ボクは嫌いではありませんが(笑)。監督 アレクサンドレ・コベリゼ脚本 アレクサンドレ・コベリゼ撮影 ファラズ・フェシャラキ美術 マカ・ジェビラシビリ衣装 ニノ・ザウタシビリ編集 ベレナ・ファイル音楽 ギオルギ・コベリゼキャストギオルギ・アンブロラゼ(ギオルギ・前)オリコ・バルバカゼ(リザ・前)ギオルギ・ボチョリシビリ(ギオルギ・後)アニ・カルセラゼ(リザ・後)バフタング・パンチュリゼ(カフェのオーナー)2021年・150分・G・ドイツ・ジョージア合作原題「Ras vkhedavt, rodesac cas vukurebt?」2023・06・03 ・no66・元町映画館no171