プロコフィエフ 交響曲第7番 ~不完全さと未熟さと~
プロコフィエフの交響曲第7番。 今日,僕の古いソニーのウォークマンには, ロストロポーヴィチ&フランス国立管弦楽団のエラート盤 が入っていた。 プロコフィエフの第7交響曲には,フィナーレについて2つの版がある。 ひとつは賑やかに終わるほうと,もうひとつは静かに終わるほう。 僕のロストロ盤は後者の版による演奏。 ブルックナーもそうだけど,いくつかの版があっても僕は全然かまわない。 むしろそのほうが自然なことだと思う。 唯一絶対のものなどないのだ。 全知全能の神でもあるまいし。 人間は全知ではない。 人間は不完全なものだ。 不完全な人間の作り出すものは,やはり不完全なのだろう。 しかしそうだからこそ,真善美に向う人間の姿は気高いものだ。 それこそが人間の人間たる所以ではないのか。 僕はまだまだ未熟者だ。 遠くを見ようとすればすぐに足元に躓き, 近くを見ようとすればすぐに目的地を見失い迷子になる。 思い起こせば 現場でも 本省原局でも 官房でも あらゆる場面で 僕は 中途半端で幼稚な失敗ばかり。 30になったとはいえ,仕事だけでなく あらゆる面でまだまだ子供だ。 人間は不完全だし, 僕は未熟者だ。 しかし, 不完全さと未熟さとは本来違うものだ。 僕はただの未熟者であって, 人間の不完全さはその理由ではない。 そんな青臭いことを考えながら, 満員電車の中でこの『青春』と呼ばれるメロディックでノスタルジックな美しい交響曲を聞いていた。 やれやれ, もっと真剣に生きなければ。