マッカの飢饉
久々に西暦535年の大噴火の話の更新です。結局リアル火山話ではなく、過去の火山話だなぁと思いつつ、とっとと話進めたいと思います。530年代後半、アラビア半島中部でも、異常気象に端を発した飢餓に見舞われていました。元々砂漠が多く、食糧の自給率が高くない地域ですから、干ばつの影響は深刻でした。この時半島中部の交易都市マッカ(メッカ)で、食糧確保に尽力したのが、イスラム教創設者ムハンマドの曾祖父アブドでした。彼は必死の努力の末、シリアから小麦を調達することに成功したのです。「アブドは他の誰もが引き受けられない責任を負った。唐箕にかけた小麦が満杯になった袋を、シリアから運んできてくれたのだ。そしてメッカの民衆に、パンをふんだんに与えてやった。そのパンに新鮮な肉を混ぜて(料理を作って)やった。民衆たちの周囲には、木製の皿が高く積み重ねられたが、どの皿も中身がこぼれださんばかりになっていた」とは、アブドと同時代の詩人、ワハブ・イブン・クサイイの言葉です。この功績からアブドはハーシムと敬意をもって呼ばれることになります。ハーシムとは「引きちぎる」という意味で、彼が飢えた貧民たちにパンをちぎって配り、スープを与えたことから付けられた名で、以後アブドの子孫たちは、ハーシム家を名乗り、メッカの名家として信望を集めることになりました。この曾祖父の威徳が、ムハンマドを助ける大きな一因になったことは間違いないでしょう。アブドはマッカに食料をもたらしましたが、異常気象は一年度終わらなかったため、飢えは実に60年近くにわたって続くことになります。さらにペストの大流行(540年代)、イエメンからの大量の難民の流入(550年代以降)が、アラビア半島の混乱に拍車をかけました。当時のアラビア半島の南部と中部では、文化や風習も異なっていたこともあり、旧住人と新住民の間で諍いが絶えせんでした。政治的な対応が必要でしたが、異常気象とペスト、戦乱により東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアの影響力が後退して、アラビア半島に政治的な空白が生じていたため、混乱を収拾することが出来ない有様でした。むしろ各オアシス都市の自立性が強まり、上の対立に加えてオアシス都市同士の覇権争いが加わり、ライバル都市のキャラバン隊(交易隊)を襲いあう混迷が、一層深まっていく有様でした。この荒廃したアラビア半島に、さらに大きな影響を与えたのが、キリスト教とユダヤ教でした。当時のアラビア半島の宗教分布を見ると、一番多かったのはキリスト教徒で、次はユダヤ教徒でした(マッカやヤスリブ(今のメディナ市)などの都市有力者階級の多くは、ユダヤ教が浸透していました)。またアラブ人は、伝統的に多神教でしたので、それらの信者、ペルシアのゾロアスター教の信仰者たちもいました。今はイスラム教一色のアラビア半島ですが、6世紀までのこの地域は、多彩な宗教が共存していたのです。それはさておき、キリスト教とユダヤ教の教義には、終末論(歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的であるという考え方です。「終わり方」については、キリスト教は、イエス・キリストの復活と最後の審判、ユダヤ教はメシア(救世主)の降臨を説いています)がありました。ペストに飢餓、戦争と混迷を深める社会に、「もはやこの世の終わりは近い」と考える人々は多くなっていたのです。それが決定的になったのは、603年に東ローマとペルシアが全面戦争に突入したことでした。キリスト教徒は、ペルシアを新約聖書「ヨハネの黙示録(余談ですが、新約聖書を聖典と認めていないユダヤ教徒も、「ヨハネの黙示録」だけは例外として聖典と認めています)」に出てくる反キリストの国とみて、ペルシアとの戦争をハルマゲドン(人類最終戦争)と考えるようになりました。一方のユダヤ教徒は、いよいよローマという獣(「悪魔」という意味です。キリストをメシアと認めていないユダヤ教徒は、ユダヤ王国を滅ぼし、偽メシア(キリストのこと)の教えを国教としたローマ帝国を、悪魔の国と見なしていました)が倒れ、真のメシアが降臨すると考えました。そういった事情で、キリスト教徒は東ローマ帝国を支援し、ユダヤ教徒はペルシアを応援して、地中海世界の人々は、住民同士で一層争うようになっていったのです。フォカスの反乱に始まる両国の戦争は、宗教的な視点で眺めると、キリスト教とユダヤ教の終末戦争という一面があったのです。この混沌とした状況に現れたのが、アブドの曾孫、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ(570年頃~632年)でした。次は、イスラム教がどのようにして誕生して、人々の心をつかんでいったのかについて、見てみたいと思います。