関東天文6年戦役 3
前回の続きです。対する北条側の反応です。北条氏綱が扇谷側の深大寺築城のことを知ったのは、 天文6年の5月後半から6月初頭頃と考えられています。なぜこの頃かと推測できるのかというと、天文6年6月に、氏綱は急に上総と駿河に展開していた軍勢を急に引き上げさせ、戦線縮小に踏み切ったからです。深大寺城築城を知ったためと考えれば納得できます。氏綱は、深大寺城築城が扇谷家の相模侵攻・江戸城奪回のための布石だと、すぐに気が付いたのです。このままでは、領土を拡大するどころか、本拠地相模が敵に分断され、崩壊の危機に陥ります。上総や駿河へ外征をしていられる状況ではありません。まず氏綱は、上総に展開している軍勢を、江戸城に撤収させる策を講じます。この頃、実をいうと、上総の真里谷武田家の内紛は、小弓公方足利義明と安房の里見義堯の支援する武田信応の勝利が決定的となっており、北条勢がこれ以上の上総で戦うことに何の益もなくなっていました。しかし小弓公方は北条氏との和睦を拒み(足利義明は扇谷側と連絡を取り合っており、彼らの相模侵攻計画を承知していたようです)、ずるずる続いていた状況だったのです。しかし現実主義者の氏綱は、ためらいなく上総を捨てました。彼は敵対する足利義明に、謝罪と弁明の書状を送り、また側近に金を贈るなど、体面にこだわらないなりふり構わぬ行動によって、敵地に孤立していた北条勢を江戸城まで無事に撤収させました。足利義明が氏綱の策に乗った形になった理由は、上総真里谷武田氏の勢力を回復させることを優先させたからでしょう。大軍を釘付けにして、築城の時間稼ぎもして扇谷側に義理も果たしています。あえて北条勢と決戦に絵地いるような、火中の栗を拾うつもりはなかったのでしょう。義明は、上総の真里谷武田氏と安房の里見氏の軍勢を招集して、本来の「敵」である古河公方足利晴氏(義明にとっては甥にあたります)との決戦に挑む腹積もりを持っていたのでしょう。一方駿河戦線の方は、策士である今川義元と武田信虎は、こちらも氏綱の足元を見て、中々和議に応じませんでしたが、大胆にも氏綱は、和議が結ばれていない状況にもかかわらず、兵の大半を駿河から撤退させました。敵に背を向ける大胆な行動ですが、氏綱は追撃はないと判断したのでしょう。というのも、内戦へ経て今川家当主になったばかりの義元は、まだ家中の統率が取れておらず、反義元派の反抗もくすぶっており、当面は北条氏の支配する東駿河に大規模な軍事行動をする余裕がありません。そして義元舅の武田信虎も、これ以上の駿河での戦いには消極的でした。信虎が今川家と同盟を求めたのは、信濃や上野へ領土拡大を目指す思惑から、後背の安全を得たいからで、駿河でいくら戦っても武田の領地は増えないので、相手が攻めてこない以上、こちらから攻める気はなかったのです。義元と信虎が氏綱の足元を見たように、氏綱も両者の足元を見たのです。このように、上総、下総の両戦線から主力をかき集める間、氏綱は深大寺城対策に牽制の手を打っていました。まず廃城状態だった小沢城(現在の神奈川県川崎市多摩区、多摩川南岸にあった北条方の城)に、監視の兵を送りました。また、江戸の留守部隊の一部を割いて、烏山(東京都世田谷区南烏山。砦跡は今烏山神社があります)と牟礼(東京都三鷹市牟礼。現在は砦跡に牟礼神社があります)に砦を築かせました。烏山砦と牟礼砦の築砦、小沢城への派兵は、深大寺城の扇谷税に対する牽制と監視でした。これを知った扇谷側も、仙川沿いに天神山砦(東京都三鷹市新川。現在は、「新川天神山青少年広場」があります)を築きました(三鷹市のHP等を見ると、「天神山城の詳細は不明ですが、深大寺城の支城説や北条家が築いた砦という説などがあります」となっています。これは私の見解ですが、天神山砦は仙川の北岸で、牟礼砦と烏山砦を分断する位置にあり、深大寺城の北東側を守る位置にあることから、北条氏が築いた説はないと見ています)。扇谷側は、深大寺城への氏綱の攻撃があると見たようで(この考え自体は、常識的で自然な考え方です)、城主に難波田弾正を入れ(彼の経歴を含め、城主だったかも正確には不明です)、深大寺城方面への増援と、警戒強化をしました。しかし、ここから氏綱がとった手は、当時としては非常識極まりない、博打と言ってよいものでした。ついでに言うと、父早雲とは異なり、堅実第一で石橋を叩いて渡る性格の氏綱が、父譲りの博打をした唯一の出来事でもありました。天文6年7月11日、江戸城に集結させた北条勢は、深大寺城ではなく、扇谷家の本拠地川越城を突いたのです。この策は、ある程度軍事関係に詳しい方からすると、奇策ではあり危険も大きいけど、「非常識極まりない」とまで言えない博打と感じることでしょう。しかしこの時代の軍勢は、利害が一致している国人衆による寄せ集めの軍であり、大名を中心とした直臣団が形成されていない時代です。戦いが始まって波に乗れば思いもしないような大軍が集まりますが、半面形勢が不利となると、あっという間に瓦解してしまうものでした。当時の軍勢は、敵地深く進攻して作戦を遂行できる能力は、極めて低かったのです。氏綱の思いがけない行動は、扇谷側にとって、明らかに想定外の事態でした。上記の理由で、扇谷側は北条勢の河越侵攻をまったく予想していなかったのです。驚愕した扇谷側は、慌てて迎撃の準備をしますが、当主朝定はまだ少年であり、危機に際して主導的な役割を果たせず、宿老たちも迎え撃つか、籠城するか意見が割れて、足並みがそろいません。結局、迎撃に決しますが、混乱したまま統制のとれていない扇谷勢は一撃で瓦解し、河越城を放棄して、朝定は松山城(埼玉県比企郡吉見町)に逃れました。氏綱は占領した河越城に、弟為昌を入れて支配体制を固めさせる一方、一軍を率いて朝定を追って松山城へ向かい、城下を焼き払いました。息をつかせぬ強攻により、扇谷勢は、松山城で体勢を立て直して反撃に出るどころか、逆に城に閉塞するしかなくなってしまいました。この事態に、扇谷側陣営の国人衆はは戦意を失い四散しました。扇谷陣営に残された城は、松山城と岩槻城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)のみとなり、他は北条氏陣営に降りました。氏綱が松山城を無理攻めをせず軍を引きましたが、これは城自体が堅固であったことと(後年、武田信玄と北条氏康が計5万もの大軍を動員して、難渋して落城させていることからも、松山城の堅固さが伺えます)、すでに河越城を手に入れ、武蔵の大部分を手に入れた状況で、これ以上冒険をするリスクを感じなかったのでしょう。彼の敵は、扇谷家だけではなかったからです。そして河越城落城によって、すべての切っ掛けである深大寺城は、存在価値を失いました。もはや深大寺城と速に駐留する軍勢は、相模侵攻・江戸奪還の拠点どころか、敵中に孤立して遊軍化し、袋のネズミになるだけの存在になってしまったのです。駐留していた軍勢はそれぞれ陣を引き払って領地へと逃げ帰り、難波田弾正も城に火をかけました(彼は松山城に逃れたようです。そして9年後の河越の戦いで主君上杉朝定とともに、氏綱の子氏康に討たれることになります)。こうして深大寺城は、一度も戦火を経験することなく、味方の手で焼かれて、生涯を終えることになりました。深大寺城は無くなりましたが、氏綱の攻勢はさらに続きます。翌天文7年10月、武蔵の大部分を掌中に収め、北条陣営に降った武蔵の国人衆たちの引き締め統率した氏綱は、2万の大軍を江戸城に集結させました。この頃小弓公方足利義明が、上総の真里谷武田氏と安房の里見氏らの軍勢約1万の大軍を集め、国府台城(千葉県市川市国府台)に集結させていました。義明の意図が、武蔵へ侵攻し氏綱との戦いのためであったのか、それとも古河侵攻のためであったかは、歴史家によって意見が分かれています。しかしどちらの意図であったとしても、古河公方と同盟関係にある氏綱にとって、小弓公方を倒す絶好の機会を得たという事で、大した問題ではなかったことでしょう。ここの第一次国府台合戦がおこります。北条勢が太日川(現在の江戸川)対岸の葛西城(東京都葛飾区青戸)に進出してきたのを知った義明は、対岸に陣を敷きで両軍は対峙しますが、実は葛西城に展開していた北条勢は陽動でした。氏綱率いる本軍は、北の相模台城(千葉県松戸市岩瀬)付近を敵前渡河しました。これを知った小弓勢は北上しますが、諸将が渡河中の北条勢攻撃を進言したにもかかわらず、義明はその策を取らず、北条勢が全軍渡り終わった後に戦いを挑みました(従来、武勇に自信のあった義明が、氏綱を軽んじたためと言われていますが、氏綱を確実に抹殺するため、氏綱旗本衆の渡河を待っていたたとの説も出ています)。戦いの結果は、小弓勢はの惨敗に終わり、義明だけでなく、義明弟基頼、嫡男義純が戦死し、一族郎党のほとんどが討ち死にして小弓公方は滅亡しました。義明の誤算は、兵力が北条勢の半分程度と寡兵で、渡河中を攻撃しなかったという戦術上の判断ミスも大きい理由ですが、参陣した真里谷武田氏と里見氏の戦力と戦意を過大評価していた点が、大きな敗因でした。というのも、家中内紛がようやく終わったばかりの真里谷武田氏は、家臣の統制が出来ておらず烏合の衆の状態でした。そのため戦闘が始まると早期に敗走してしまいました。そして里見氏に至っては、国府台城と松戸城の間に布陣して、合戦当日は義明の出陣要請に従わず、最後まで動きませんでした(里見義堯は、義明討ち死にの報が届くと、すぐに兵を引いて、今までの味方であった真里谷武田氏の上総領に侵攻して領地を奪っていきます。実は前年の河越攻めでも、里見勢は北条氏に援軍として兵を送っていたこともあり、氏綱と密約を結んでいたという説があります)。上総勢の敗走で、早期に旗本衆を戦線に投入せざるを得なくなった小弓勢は、北条勢大軍の攻勢の前に壊滅してしまったのです(一説には義明は、弟と嫡男の死で自暴自棄になって、無謀な突撃を敢行したとも言われています)。氏綱を討つことばかりにこだわって、自軍の現状を把握できていなかった点が、彼の敗北につながったのです。こうして、氏綱を襲った最大の危機は終りました。扇谷家の深大寺築城に始まっ北条氏最大の危機は、逆に武蔵の大半を切り従え、相模の支配を確固たる切っ掛けにするものとしました。そして関東制覇に向けて再び上総・下総へも手を伸ばしていくことになります。北条氏綱とというと、父早雲や、息子氏康に比べて地味な印象しかなく、あまり光をあてられることはありませんが、深大寺築城に始まった最大のピンチをチャンスに変えた手腕は、もっと名将として評価されてもいいように思います。そしてすべての切っ掛けとなった深大寺城は、再建されることなく(すでに武蔵の大部分を手に入れた北条氏にとって、再建する価値のない場所になっていました)、歴史の中に埋もれていくことになったのでした。・・・「天文6年戦役」とかいいつつ、翌年も入ってますね(多汗)