富士山噴火史 番外編2 富士山噴火の呼び水、元禄大地震 (1703年) 後編
後編は、江戸の被害状況や、その後の影響について簡単にまとめてみたいと思います。元禄地震の被害は、江戸や甲府など、関東近辺の天領にも及んでいます。江戸市内は町奉行の領分ですが、関東一円に散らばる天領の復旧は、関東郡代の領分となります。従って伊奈忠順が対応にあたっています。元禄地震の時は、江戸に水を供給されていた用水路に破損が発生していたため、用水路沿いや、多摩川周辺を中心に、忠順と家臣たちは飛び回っています。と、ここで余談ですが、江戸は海辺に近い湿地帯で、徳川家康入府後に埋め立てられて発展しました。そんな土地柄のため、井戸を掘っても塩水しか出ませんでした(相当深く掘り、海水がしみこまないよう側面に被いを作れば、真水が出ましたが、莫大な経費かがかかる上に量が少ないため、とても一般庶民に供給できるものではありませんでした。そのため「井戸がある家は金持ち」と俗に言われていたそうです)。そのため河川などから用水路から水を引き、江戸中に供給していました。当時は今の一般家庭にある蛇口タイプの加圧式の水道を作る技術はなかったため、自然流下式の井戸形式の水道でした。テレビの時代劇で、長屋などで出てくる井戸は、実は井戸ではなく地中に埋められた木製の管を通して供給された水道水なのです。意外に知らない人がいいのかなと思います。現地の状況を、常に的確に把握しようと努めた伊奈忠順は、被災地までは馬で出向きますが、村内は歩いて見て回り、名主や豪農だけではなく、小作農に至るまで声を掛けたと言われています。そのため他の奉行や役人と異なり視察は時間がかかって、数日がかりになる事も珍しくなかったようです。関東郡代の家臣たちは、視察の際は大量の草鞋をもって歩いたと言われています。今でも災害時、よく新聞などで批判される「大臣の形ばかりの短時間視察」は、忠順にはあり得ないものでした。「背の小さいお殿様だったと伝えられています。村内は歩いて見回り、出会った村人に気さくに声をかけて話を聞いていたそうです。(災害で心がささくれ立った者から)荒げた声を浴びせられても、決して怒る事はなかったと聞いております」とは駿東郡に残る忠順の伝承ですが、この光景は、4年前の元禄地震の際でも変わりはなかったのです。用水路の修復や、橋・道路の復旧、倉の再建に、伊奈忠順は奔走しています。次に江戸市内の様子ですが、新井白石の自叙伝『折たく柴の記』から見てみたいと思います。「我はじめ湯島に住みしころ、癸未の年、十一月廿二日の夜半過ぎるほどに、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、ここかしこの戸障子皆たふれぬ。妻子共のふしたる所にゆきて見るに、皆々起出たり」「湯島に住み始めてまもなく、癸未の年(干支の一つで元禄16(1703)年の事)11月22日の夜半(現在日付概念では23日)過ぎに、地震があった。驚いて目を覚まし、刀を取ってすぐに家族の安否を確かにいくと皆目を覚ましていた」という意味になりますか。白石は、主君である甲府藩主徳川綱豊(のちの六代将軍徳川家宣の事。最近の説だと、宗家・御三家以外は徳川姓を名乗れなかったため、甲府藩主時代は徳川の姓を名乗らず、松平姓だったとも言われています)の安否を確認すべく、日比谷にあった藩邸を目指して湯島から向かっています。「道にて息きるる事もあらめと思ひしかば、家は小船の大きなる浪に、うごくがごとくなるうちに入て、薬器たづね出して、かたはらに置きつつ、衣改め著しほどに、かの薬の事をば、うちわすれて、走せ出しこそ、恥ずかしき事に覚ゆれ。かくてはする程に、神田の明神の東門の下に及びし比に、地またおびただしくふるふ。ここらの空き人の家は、皆々打あけて、おほくの人の小路ににあつまり居しが、家のうちに灯のみえしかば、「家たふれなば、火こそ出べけれ。灯うちけすものを」とよばはりてゆく。おほくの箸を折るごとく、また蚊の聚りなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人の叫ぶ声なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵起りて空蔽ふ。かくて、かの火出しところにゆきて見るに、たふれし家に、圧れ死せしものどもを引出したる、ここかしこにあり。井泉ことごとくむつきて水なければ、火消すべきやうもあらず」「道中息切れを起こすだろうと薬を用意したのに、地震で家が小舟のように揺れるのに気を取られて、着替えの間に薬の事をすっかり忘れて外に飛び出してしまった。とても恥ずかしい。神田明神の東門下のあたりにつく頃に余震が来て、周囲を見ると灯りをつけた家(電気のない時代ですから当然蝋燭です)があったので、「家が倒れたら火事になる。火を消せ」と叫びながら進んだ。うなるような地響きと共に余震が来、家の倒壊する音、人の叫び声が上がり、石垣が崩れ塵が舞い上がっている。あちこちから火の手が上がり、倒壊した建物につぶされて死んだ者の遺体も引き出されている。水道は水は枯れ、火を消す事が出来ない」という意味でしょうか。この白石の記録も、今回の震災の話と重なる点が多いように思います。また上記の他に液状化現象を思わせる記述も残されています。冷静な新井白石らしく、客観的な視点で状況を観察しています。その彼ですら、地震に動揺して用意した薬を持ち忘れてしまった位ですから、江戸市民の動揺はどれほどだったかが察せられます。幸いにも江戸の倒壊家屋は少なく(全倒壊22戸。半壊等は不明です)、死者も340人あまりと言われていますが、用水路の破損などから、白石が懸念した火災は、至る所で発生しています。震災翌日、本郷追分より出火した炎は谷中までを焼き、その後再び小石川より出火、北風にあおられて上野、湯島、筋違橋、向柳原、浅草茅町、神田、伝馬町、小舟町、堀留、小網町と焼きつくし、さらに本所へ飛び火して回向院から深川、永代橋までを焼いて、両国橋は西の半分が焼け落ちました。これは言うまでもなく震災後の二次災害です。大正12(1923)年の関東大震災(M7.9)の「一つ前の地震」と言われ、規模も元禄大地震の方が数倍大きかったのに、人的被害が少なかったのは、震災直後に大火災が発生せず、当時の江戸は緑地が多くて逃げられる場所が多かった為と言われています。幕府は治安回復にあたり流言を取締り、大寺大社に天下安全の祈祷を命じて人心の動揺を防ぐ一方、「生類憐れみの令」により町方に負担させていた「犬扶持」を免除するなどの対策を講じています。五代将軍徳川綱吉というと、「生類憐れみの令」や『水戸黄門』『忠臣蔵』の影響で悪評の方が高いですが、福祉に力を入れた政策も多数おこなっており、視覚障害者のために職業訓練所を作って、鍼師や按摩(マッサージ)師の育成も積極的におこなった、当時の政治家としては世界的にも先進的な人物でもありました。しかし皮肉な事に、その先進的な福祉政策が幕府の財政を悪化させ、経済の減退、デフレに突入させる羽目に陥っていました。幕府は勘定奉行萩原重秀の献策で貨幣改鋳(貨幣の金銀含有率を下げて、貨幣の供給量を増やしました)に踏切り、財政赤字を減らしつつ、経済成長をプラス転換させつつありましたが(年次インフレ率は3パーセント前後で、急な政策転換のせいもあってやや過熱気味な水準でした)、道半ばで元禄大地震の打撃を被る事になってしまいました。復興のための莫大な資金の支出に、幕府の財政は再び急速に悪化していきます。市民生活も、江戸は魚の供給が激減して高騰して手に入らなくなるなど、深刻な影響が生じます。江戸にとって主要産地であった房総地域が津波で壊滅したからです。震災時イワシ漁のシーズンだったため、漁師の多くが海辺に仮小屋を造って漁の準備に勤しんでおり、津波で船もろとも壊滅してしまった事がその後も大きな影を落とす事になります。魚の高騰はその後も進み、他の食品や物資も高騰し、高物価時代に突入します。この後は、新井白石による貨幣改鋳(貨幣の・金銀含有率を元に戻し、貨幣の供給量も萩原重秀の改鋳以前に戻しました)により高インフレが一転、デフレ不景気時代へ逆行し、八代将軍徳川吉宗による享保の改革まで、幕府は財政難、庶民は物価高に苦しむ事になります。最後に、元禄大地震後の元禄16(1703)年12月29日(旧暦)から4日間にわたり、富士山が鳴動したと言われています。富士山近辺の住人達は、山が崩れるのではと心配しましたが、この時は鳴動だけで終わっています。そのためこの事は忘れ去られてしまいますが、鳴動は地震の影響で富士山直下の浅い部分にマグマが上昇してきたためなのは間違いありません。この時点では力不足で噴火に至らなかったのです。しかし4年後の東海・南海・東南海連動型地震、宝永大地震の発生により完全に箍か外れた富士山は、地震の49日後大噴火を起こす事になります。こう見ていくと、元禄大地震は繁栄を誇った元禄時代の終わりを告げる最初の災害だった事がわかります。そして4年後の宝永大地震、富士山宝永大噴火で命脈を絶たれ、大消費時代としての元禄文化は完全に終焉を迎えることになります。