なんにせよたいした事はない その17
その17 ~夜の風景8~「い、いただきますですぅ。そりにしてもこのケーキはよく出来ているですね。 食べるのがもったいねーですぅ。」「当たり前だろ。だから世界的に有名なパティシエが作った超美味いケーキと言っただろ。 もったいないなら飾ってろ。」翠星石は恐る恐るケーキにフォークを入れようとした。俺はその度に『アー!』とか『ウォー!』とか言って、横からチャチャを入れてからかう。翠星石はそれにビクッとしてフォークを引っ込めては刺そうとする。ああ、こいつも食うのは抵抗があるんだな。芸術作品を壊すんだからな。無理もない。でもおもしろいからやめられない。こいつはまるで小動物のようにビクビクしている。「マスター、あの…、いい加減にシスターをからかうのはやめてもらえませんか? シスターもお気になさらずにお召し上がり下さい。せっかくのケーキですから、ね? それにこれを作った職人さんもそれを願っているはずですよ。」…怒られた。ちょっと大人気なかったか。でもまあ楽しませてもらったから良しとしよう。ビールをグビッと一口飲む。「く、く、食ってやるですよ。こんなケーキ、なんにせよたいした事ねーですぅ。 ちょ、ちょっときれいなだけですよ。この翠星石様を満足させられるはずは…。」翠星石は意を決してフォークを構えなおすとケーキに向かって突き刺し、すくい取った。強がっていてもフォークには小さな塊しか刺さっていない。まあ確かに一口サイズかもしれないが、小心者ぶりが見事に出てるな。お前らしい…。それを本当に一口で口に入れる。俺と謎の女(美少女)はそれを堅く見守っていた。「う…。」翠星石はフォークをくわえたまま、かっと目を見開いた。なんだあ? 見かけによらず、案外まずいのか? …じゃないみたいだな。「ううううう…。」次にギュッと目をつぶり、両手両足をジタバタさせはじめた。「マスター、まさか、ケーキに毒が?」謎の女(美少女)が真剣な顔で俺に向かってそう言った。さっきの殺気も一緒に…。あの…、スイドリームさん。それはありえませんから。たぶん逆だろうって。「美味しい~ですぅ!」ほらな。たぶんそうだと思ったんだ。奴のいる店でこういう光景を何度か見たことがある。うますぎて身もだえしてしまうってやつだ。昼間の大原さんもそうだったな。さすがに俺はそこまで行かなかったが、俺みたいな甘い物嫌いでも納得させる味だ。ケーキ好きな翠星石がこういう反応するのは別に不思議でもなんでもない。「惇!! このクリームが…、スポンジが…、フルーツが…、もう勘弁ならねえですぅっ!」なんだか意味不明な感動の仕方だな。素直にうまいだけで充分だろ。「そりゃなによりだな。うまいのはわかっていたがそんなに暴れるこたあないんじゃないか?」「うるせぇーですぅ。うますぎてじっとしていられないですよ。 いいからスイドリームも食べるですぅ。」「はい…。ではいただきます。あの…。」謎の女(美少女)が俺を見つめる。いや、俺の顔見て許可を求められるフリをされてもだな…。「あ? 俺か? 俺は鍋を食うから気にすんなって。」どういう意味なんだろう? 今の視線は…。考えようとしてやめた。一々相手にするのもなんだかバカらしい。「本当においしいケーキですね。マスターもよかったらいかがですか?」「いや、だから俺は甘いもんは苦手なんだよ。せっかくのビールがまずくなる。」そういって喉越しよくビールを飲む。ウマい。美味過ぎる。やっぱりビールは止められない。視線を動かすと翠星石とスイドリームはお互いにケーキの美味しさを自慢しあうように喋っていた。満面の笑顔とキャッキャと聞こえる笑い声が気こちいい。しかしこうして見るとまるで仲のいい姉妹の様だな。悪魔人形と謎の女(美少女)なんだが…。俺は鍋から箸でごっそりと野菜をつまんで取り皿に入れる。さっき台所に行ったときに隠し持ったポン酢を取り出してこっそりとかけた。確かにこの鍋はうまいのだが、なんていうか俺的にパンチが足りない。やはり鍋と言えばポン酢が浮かび上がるぐらいの思考回路しか持ち合わせてないからな、俺は。こういう洋風の鍋でも以外に合うんじゃないかと思ったわけだ。ただ、それを試すのは明らかにこの女に失礼のような気がして、躊躇せざるを得なかった。まっ、チャンスと言えばチャンスだからな。二人の意識が鍋に向いてないうちに…ってわけだ。白菜を口に運ぶ。ポン酢の爽やかな酸味が鍋のだし汁と混ざって芳醇な風味を醸し出す。う…うまい。そうか俺の求めていた味はこれだったのか。まさしくこれは究極の!!!!………、なんて東西新聞社の社員になったつもりになる。至高の敵がいないのは残念だが。あ…、なんか涙が出てくる。やっぱお鍋にはポン酢だよな。でも何気にこの恥ずかしい顔は見せられないか。そう思って横を見た。ありゃ? なんだか静かだな。さっきまで騒いでいたかと思ったんだが。「ん? どうかしたか? 欲張りすぎてケーキを喉につまらせたか? 普段からバカみたいに食い意地張ってるからそんな目に遭うんだ。 ほら、背中叩いてやるから、ペッと出せ。ペッと。」人がせっかく究極と呼べる鍋にめぐり合ったってのに、どこまでぶち壊せばいいんだ。悪魔人形め。そう思って手を伸ばそうとした瞬間、翠星石は頭を振ってから肩を震わせて静かに言った。「惇…。これは…。これはどこで買ったですぅ…。」「ん? これ? ああ、ケーキの事か? うちの会社の近くで買ったんだが、それがどうした。 ケーキ専門店じゃなくて洋風レストランだが味はかなり保障できると思ったんだがな。」「じゃあ、惇は…。惇はこれを作った人を知っているですか…?」「作った人? ああ、あの兄ちゃんか。ええと確か名刺をもらったはずだ。」上着はどこだ? きょろきょろと見回すと丁寧に壁のハンガーにかけられていた。立ち上がって上着を取り、ポケットをまさぐって名刺入れを出す。「お前もさぞかし気に入ったか? なんせ世界的に有名なパティシエだからな。 パリの三ツ星レストランを渡り歩き、あらゆるコンテストを総舐めにしたそうだ。 たまにはこれぐらいの贅沢をしたっていいかなと思ってさ。 俺も今日のパーティに最高のものをって注文した甲斐があったってもんだ。」もちろん嘘である。大原さんがケーキに誘われなければ俺は激辛カレーを食べていたしな。ケーキは大原さんがいただく。んでもって、俺は大原さんをいただく。ってのは無理だとしても…。やべ…、今頃になって大原さんの胸の感触を思い出してしまった。なんやかんやのドタバタで忘れちまっていたと思ってたのに。いや勘弁してくれ、あれは反則だ。不可抗力だ。俺は悪くない。悪くないはずだ。「どうかしました、マスター?」「いや、なんでもない。なんでもないって。えーっとパティシエだろ? パティシエ…。」不謹慎な妄想を見破っているかのようなまなざしで謎の女(美少女)は俺を見て言った。気のせいか、背中に冷たい汗が流れるような感じがする。「あ~…。あった。これだ。えっと…児玉…大和…。そうだ、こいつだ。 俺より少し若い感じのやたらと笑顔な感じの奴だったな。って、笑顔な感じってなんだよ。」自分で言って自分に突っ込むのは世話ないが、思わず出た言葉に笑ってしまった。やっぱり俺はあの笑顔に取り憑かれているらしい。ここで念を押しとくが断じて俺はその気はない。ホモなんて違う世界の生き物だ。「児玉大和…。やっぱり…。」俺の一人ボケ一人突っ込みにはまったく相手もしない様子で翠星石はつぶやいた。悪かったな、くだらなくて。俺も軽くスルーされてるほうが傷つかないってもんだ。名刺を翠星石に見せて渡す。こいつがどれだけ文字を読めるかわからないが、まあいいだろ。見て確認してくれ。「児玉、大和…。」手にした名刺をじっと見つめ、再び翠星石はつぶやいた。オイオイ、マジでそんなに有名な奴なのか? 俺も大原さんのようにサインもらっちまえば良かったのか?そっか、それならリボ払いなんてしなくてもプレゼントは確保できたかもしれなかったのに…。くそっ! ぬかったわ! こいつだけは一年経っても読めねえな。「俺はよく知らねえが、そいつそんなに有名なのか? ふ~ん、だったらサインでももらってきた方が良かったか? 」「大和…。また腕を上げたですね。この翠星石を満足させるとはたいした野郎ですぅ…。」「聞いちゃいねえし…。って、なんだ!? お前の知り合いだったのか? そいつ…。」翠星石は名刺を見つめて自分だけの世界に入り込んだようだった。しかも笑ったような泣いているような顔で涙を流してやがる。なぜ、そこまで泣ける?「えへへへ…、でもやっぱりたいした事ねえですよ。 そう、なんにせよたいした事ねえですぅ…。大和…。」なんにせよたいした事ない…だって?う~ん、いったいこれはどんなシチュエーションなんだ。もしかして感動して泣いている? ありえねえだろ悪魔人形が!? …続く。